土着の工芸の、その先へ – 日本工芸週間 https://craftweek.jp Fri, 10 Apr 2026 00:15:16 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=7.1 イグサとともに、まだ名前のない場所へ|熊本 https://craftweek.jp/column/76094 Fri, 10 Apr 2026 00:15:15 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=76094 地方において、工芸はこの先、いま以上に価値を発揮する秘めた宝になると思う。自然、風土から発展した仕事を、どう変換し、文化として昇華させるのか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載では現場を見にいくとともに、どう工芸の新たな価値を見出していくのか、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

撮影:マエダモトツグ.

畳の原料として知られるイグサ。その植物を使ってアクセサリーやオブジェを制作する女性2人組がいる。イグサの産地、熊本県で活動する「itiiti(イチイチ)」だ。素材を解体し、再構築するというアプローチは、やがてアクセサリーの枠を越え、空間デザインへと展開していく。彼女たちが見つめているのは素材の可能性であり、人の心を動かす何かを生み出したいという純粋な衝動。それはアートにも通じるものだ。

イグサ 撮影:マエダモトツグ.

イグサをアクセサリーに

 ながいの、ながいの、みじかいの、ながいの、ながいの……。長さの違うイグサのパーツを、くりかえしつないでいく。すると片手におさまるくらいの、小さくこんもりしたイグサの塊ができる。カラフルに染めたイグサを使うと、ふわふわと軽いピアスやブローチなどのアクセサリーが完成する。小さくても、存在感のある品だ。

写真提供:itiiti

 イグサ、という植物を見たことはあるだろうか。畳の原料で、稲のようにしゅっと細長い。このイグサを代表的な素材として、アクセサリーやオブジェ、最近では大型のインスタレーションなどを制作するのが、田中ノリコさんと村上キミさんの2人によるユニット「itiiti」だ。

 初めてitiitiのピアスを目にしたのは、都内で2000年に行われた展示会だった。小柄な女性(後にこの方が田中ノリコさんだと知る)が、熱心に説明してくれたことを鮮明に覚えている。多くのプロダクトが並ぶなか、イグサで作られたそのアクセサリーは、ひときわ印象に残った。畳の原料から、こんなふわふわした素敵なものができるのだという驚きがあったのかもしれない。

アクセサリー用に染められたイグサ 撮影:マエダモトツグ.

イグサという植物の可能性

 前に一度、八代でイグサの田んぼを見たことがある。背丈が高いもので150〜160cmほどにもなるイグサは、お米と同じように水を張った田んぼで栽培される。稲より緑が濃いので、遠目にみてイグサか稲かはすぐにわかる。

 八代市は日本一のイグサの産地。海のすぐそばに、濃い緑と薄い緑の四角の田んぼがまだらに広がっていた。

 一般的には11月下旬〜12月頃に植え付け、6〜7月頃に収穫。比較的気候が暖かいため米との二毛作が多く、イグサを刈り取ったあと、同じ田に水稲が植え付けられる。

写真提供:itiiti

 かつては、イグサは畳だけでなく和ろうそくの芯にも用いられていた。「灯芯草(とうしんそう)」という名でも呼ばれるのはそのためだ。「ズイ」というスポンジ状の白い芯の部分がロウを吸い上げるのにちょうどよく、ズイを抜き出すためにすーっとイグサの皮をむくお母さんたちの手つきが見事だったのを覚えている。

 itiitiのアクセサリーも、イグサの芯がスポンジ状になっている構造を利用してつくられる。カットしたイグサの内側に糸をとおしてつなぐのだ。

 いま、日本で流通するイグサの約9割は海外産。おもに中国からのものだ。国産では熊本県八代市が96%を生産する産地だが、40年前に比べて生産農家は94%減という驚くほどの減少ぶりで、200軒を割ろうとしている。   

 このままいくと、いずれ国内では生産されなくなってしまうのだろうか。
itiitiの品は、そんなイグサという素材の可能性をひらくことにつながっている。

写真提供:itiiti

素材に価値を見出して、再構築する

 熊本市西区にあるitiiti の工房へお邪魔した。

 がらんと広い空間で、入り口脇にはイグサの束や、カラフルに染めあげてカットされた原料がいくつも積み重ねられている。

 itiitiの田中ノリコさんと村上キミさんは凸凹コンビで、2人並ぶと愛らしい。快活でくるくると頭がまわる小柄な田中さんと、おっとり話す長身の村上さん。2人とも、ものづくりがとても好きな女性という印象を受けた。

 2人は、同じ建築系専門学校の同級生。卒業して10年も会っていなかったが、どんな運命のいたずらか、それぞれが会社を辞めた時期がたまたま重なり、再び会うようになる。当時熊本市で行われていた「河原町アートの日」 に木工クリエイターとして共に出展し、熊本市現代美術館によるアワードで受賞した。2010年頃のことだ。

itiitiの田中ノリコさん(左)と村上キミさん(右) 撮影:マエダモトツグ.

 itiitiと名乗るようになったのと、イグサを用いて作品をつくり始めたのが同じ時期で、2020年頃。“日常の些細なもの、素通りしてしまうようなこと一つひとつに新たな価値を見出して再構築(リコンストラクト)する”をコンセプトに、本格的に2人で活動を始めていく。

 itiitiという名前は、「i+ii+i」の「+」を「t」に置き換えたもの。「i」は人を表し、生産者、itiitiの2人、エンドユーザーをつなぐ、といった意味が込められている。

 「アクリルや木を素材にものづくりをしてきて、次に何をしようかと考えた時、うちの叔父がイグサ農家だったので、イグサをつかって何かできたらいいなと、ごく自然に行きつきました」(田中さん)
 
 そうして生まれたのが、ピアスやイヤリングなどのアクセサリー。これまで畳の原料としか見られていなかったイグサがおしゃれなアクセサリーに生まれ変わったのを、もっとも驚きの目で見たのはイグサの生産者たちだったという。

  「『身近にあったものが、こんな価値あるものに変わるなんて!』と驚かれました。うちのイグサも使ってくださいと言ってくださる農家さんが現れたり。うちの伯父などは、『自分が2年かけて育ててきたものが、人の日常に寄り添えるものになるのがすごく嬉しい』と話していました」(田中さん)

itiitiの田中ノリコさん(左)と村上キミさん(右) 撮影:マエダモトツグ.

より大きな作品へ

 とはいえ、小さなアクセサリーでは使うイグサの量にも限りがある。「使用量を増やさなければ、地域の産業に貢献はできない」と、プロダクト開発の専門家から助言を受けたこともある。

 「はじめにアクセサリーにしたことはインパクトがあったし、それでよかったと思っています。イグサという素材に注目してもらうきっかけになればいいと思っていたので。
でももともと2人とも、インテリアや建築が好きで勉強してきたので、アクセサリーよりも空間自体の装飾品、アート作品やインテリアのほうに向かうのが、ごく自然な流れだったように思います」(村上さん)

 インテリアとして制作した最初のきっかけは、2023年春にホテル「OMO5熊本 by星野リゾート」がオープンする際に制作依頼を受けたオブジェだった。これまでアクセサリーにしていた、イグサの小さな“こんもり”をそのまま大きくした、直径30cmほどのオブジェ。これは今もホテルのロビーに飾られている。

 次に生まれたのが、白く染めたイグサを集めてつくられた、半立体の壁にかけるオブジェ。あとから振り返れば、この作品がitiitiのその先の道をひらく糸口になる。

 初めて写真で見たときは、思わず「わぁ……」と声がもれた。80cm四方ほどのサイズだが、イグサの青味もうっすら感じられ、雪の結晶のようで美しかった。

写真提供:itiiti

 この作品を、2023年5月に開催された「SICF(スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバル)」(*)に展示したところ、プロダクトデザイナーの鈴木啓太さんの目に留まる。

 「残念ながら賞は獲れなかったのですが、審査員として来られていた啓太さんが、総評で印象に残った作品として私たちの作品を挙げてくれて。それがすごく嬉しくかったんです」(田中さん)

 同じ年の冬、この作品をさらに発展させたような、真っ白なイグサをつないだ塊やリングをまとったクリスマスツリーが、「OMO5熊本 by星野リゾート」のカウンター横を飾った。もこもこした質感が、遠目に雪が降り積もっているように見える。このときは公開制作の形をとり、多くの人々が作品に関わるスタイルで制作された。

 この年の年末、2人はこうinstagramに綴っている。

「2023年をふりかえると、前々から思っていたイグサで大きな作品を作りたいという願いが叶った年でした」

 これらの制作が、より大きなもの、オブジェ、インテリア品などの作品へシフトする布石になっていく。

写真提供:itiiti

(*)東京・南⻘⼭の複合⽂化施設「スパイラル」が主催する、若⼿作家の発掘・育成・⽀援を⽬的としたアートフェスティバル。

身につけるイグサから、眺めるイグサへ

 2024年が明けるとすぐに、「身につける藺草ではなく眺める藺草」と題して、イグサの細さをいかしたモビールを発表。 

 「イグサを多角的に捉えていきたい」という思いから、《多角》と名付けた。イグサの繊細なラインと風になびくたおやかさが同居している。

イグサのパーツをつないだモビール《多角》 撮影:マエダモトツグ.

 次に迎えたのが、熊本市現代美術館での大型作品である。

 モビールはスポンジ状になっているイグサの芯に糸を通す構造でできている。紙の筒で同じつくり方をすれば、イグサのモビールを巨大にしたインスタレーションができると考えた。はたして、その通り。

 2024年夏、美術館の吹き抜けの空間を飾った巨大なモビール《Paper Cloud(ペーパー・クラウド)》。写真を見るだけでも、美しい。

写真提供:itiiti

 いまもitiitiを知る人たちにとっては「イグサのアクセサリー」のイメージが強いのではないか。けれどこの作品で、2人は“イグサ”という原料からも“アクセサリー”というジャンルからも自由になったのだと思う。できることが広がった、ともいえようか。
 
 もともと2人は、イグサに限らず木工やアクリルなどの素材を小物やインテリアにして評価され、それが活動するきっかけになった。素材がイグサから紙に変わっても、“つくる理由”の根本は変わらない。
 
 ただし、今後もイグサがitiitiの象徴的な素材であることに変わりはない。
 工房で、2人はイグサを手に「ああでもない、こうでもない」をくり返す。その間に、イグサをどう扱えば面白いかのアイディアがたくさん生まれていく。

 「イグサには素材としての可能性がまだまだたくさんあると思っているんです。形になっていないアイデアや、やりたいこともたくさんあります。この素材のインパクトをみんなに知ってもらいたい」(田中さん)

一定の長さにきりそろえたイグサを敷き詰めたアートワーク 撮影:マエダモトツグ.

 地域資源をプロダクトに昇華するといったものづくりは、いまや珍しくない。これだけSDGsが叫ばれる世の中で、わたしたちはつい作品やプロダクトに社会的意義やつくる意味を求めがちだ。

 けれど、itiitiの2人は、そうしたメッセージより以前に、人がはっとする感覚、驚き、ふわっと心が動く新鮮さ、みずみずしさのようなものを届けたいという衝動からモノをつくっている。

 見る人が「何これ?」「すごい気になる」と思わず見たり手にしたりしたくなるような。

撮影:マエダモトツグ.

「なぜだかわからないけど圧倒されたり、『面白い、あ、すごいな』って思ったりしてもらえたら、ということをいつも考えてつくっています」(田中さん)

 驚きや意外性。あの素材がこんな風に変わるとは・・・・・・。
身近にある素材がまったく違って見える新鮮さ。個性的で心に残るもの。

プロダクトか、アートか?

 一般的にアクセサリーなどの「プロダクト」と、オブジェやインスタレーションのような「作品」では世間からの捉えられ方が違う。それはそのままつくり手が「デザイナー」なのか「アーティスト(作家)」なのか?という肩書きをめぐる問いにもつながる。

 itiitiはデザイナーなんだろうか、アーティストなのか。つくるものはプロダクトなのか作品なのか。そんなことを心のうちで思っていると、田中さんがこんな話をしてくれた。

「ある展示会で、ずっと熱心に話を聞いてくれる男性がいたので『どこかでこのピアスをご覧になったことがありますか?』と尋ねたら、『実はうちにあるんです』って。奥様が買って大切にしてくださっていたそうなのですが、今年の2月に亡くなられたと。『彼女が大事にしていたモノに偶然会えたのが奇跡みたいで、いま鳥肌が立っています』と仰って。その方、泣かれていて。こっちももらい泣きしちゃって、一緒に泣いて」

 ふっと絡まっていた糸が、ほどけた気がした。プロダクトでも作品でも、どちらでもいいのだ。
その男性が、瞬時に奥さんと同じモノだとわかったのは、このアクセサリーがどこにでもあるモノではないからだ。初めて見た人の記憶に残る何か。

 カテゴリなどどちらでもよいと思わせる、大らかさがある 

撮影:マエダモトツグ.

 itiiti の作品はアクセサリーにしてもオブジェにしても、2人が体をはって気の遠くなるような時間をかけてつくる。一つひとつ切り離し、一本一本糸をとおして。
 もう一つは、イグサという自然の素材がもたらす説得力。
 その強さが作品になり、インパクトを残したいと願う彼女たちの思いが表現される。

 一見、遊んでいるようにも見えて「私たちこれ(itiitiの活動)一本で、本当に命懸けでやっているので」と、真顔でさらっと言ってのける。

 頭で考える前に、手を動かすこと。意味より先に、感覚を届けること。
それが、itiitiがめざす“つくる理由”だ。

取材協力

itiiti:
田中ノリコさんと村上キミさんによる制作ユニット。熊本を拠点に、日常には必要ないものや皆が素通りするような些細なことに目を留めて向き合っていくことを大切にしている。建築を経由した2人が身近な素材に閃きや発想の転換を加え新たな価値と新たな繋がりを提案している。

HOME | itiiti

]]>
和紙はここにあるだけ|佐賀 名尾 https://craftweek.jp/column/75334 Tue, 19 Aug 2025 02:32:27 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=75334 地方において、工芸はこの先、いま以上に価値を発揮する秘めた宝になると思う。自然、風土から発展した仕事を、どう変換し、文化として昇華させるのか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、この先、いかに工芸の新たな価値を見出していけるのか、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

写真撮影:藤本幸一郎

佐賀県の名尾地区は、かじの木が豊富に自生することから、和紙の産地となった。いま和紙の原料は品種改良されたこうぞが多いが、梶はその原種である。名尾では最盛期には100軒あった工房が、いまでは一軒のみに。だが最後の一軒という環境が、和紙を自由なものにした。「名尾手すき和紙工房」では梶を育てながら和紙をき、クライアントワークも、オリジナルのプロダクトづくりも行い、独自の作品を生み出し続ける。

和紙は伝統工芸品の枠にはおさまらない、見る人に多くのことを感じてもらえる媒介になれるのではないか。七代目の谷口弦さんはそう話した。

名尾和紙の産地へ

 朝からの雨で、春の里山はしっとり湿っていた。佐賀県佐賀市大和町名尾地区は干し柿の産地でもあり、山のふもとは柿の樹のみずみずしい若葉に覆われていた。車で進むと、やがて新緑の中に浮かび上がるように「名尾手すき和紙工房」の工房が見えた。

 作業場では七代目の谷口弦さんが、次の作品づくりに勤しんでいた。

「名尾手すき和紙工房」の七代目谷口弦さん 写真撮影:藤本幸一郎

 名尾地区は、紙すきに必要な清らかな水があり、原料となる梶の木が自生していることから、製紙に向いた土地だった。わざわざ植えなくても、あたり一帯にはもともと梶の木が多く自生していた。最盛期には100軒以上の和紙工房があったが、いまでは「名尾手すき和紙工房」のみとなり、谷口さん一家と職人たちが和紙づくりを続けている。

 手を休めることなく、谷口さんが話してくれる。

「このあたりでは主に柿や米をつくってきました。でも山じゃないですか。人は増えるのにこれ以上土地がない。困ったなということで、八女やめから製紙の技術を持ち帰ったのが名尾和紙の始まりと言われています」

 名尾和紙には300年以上の歴史がある。まず越前から八女に製紙の技術が伝わり、それを学びに行った職人が地元の名尾に持ち帰り、名尾和紙が始まった。

 藩などに推奨されたわけではなく、あくまで自発的に始まった産業のため、原料の調達も売り先も自分たちで開拓するほかなかった。それでも需要があったため、梶の栽培と製紙は盛んになった。

水槽をのぞくと水は限りなく澄んでいた。 「このあたりはいまも水道が通っていないんです。山の水を汲み上げたもので、地下水なのでそんなに冷たくないし、夏も冬も、17〜18度とある程度一定の温度です」

梶の木の繊維をやわらかくするために水に浸してある 写真撮影:藤本幸一郎

見晴らしのいい工房 写真撮影:藤本幸一郎

和紙に定まった形はない。「紙はそこにあるだけ」

 谷口さんのつくる作品は、工芸というよりアートとして捉えられる作品が多い。家業に入って2年は技術の習得に没頭し、初めて制作したのが「還魂紙かんこんし」をモチーフにした作品だった。還魂紙とは、鎌倉時代には弔いのために遺灰を紙に漉き込んだものを指し、江戸時代には手すきで再生した紙そのものをそう呼んだ。

 初めて雑誌『POPEYE』を紙に漉き込んで以来、落ち葉やTシャツなど、さまざまなものを漉きこみ作品にした。和紙を素材以上のものにしたいとの思いからだった。

その後、編集者やデザイナー仲間とともに立ち上げたのが、アートコレクティブ『KMNR™(カミナリ)』。KMNRから発表した代表的な作品のひとつに「関守石せきもりいし」がある。関守石とは、日本庭園や茶室の露地などで、立ち入り禁止を表すために置かれる結界の石。和紙を塊にして石に見立てた。

「関守石」 写真提供:谷口弦

そんなふうに試行錯誤をするうちに気づいたことがある。和紙には定まった形がない、ということだった。

「名尾和紙は佐賀県の重要無形文化財指定を受けていますが、無形ということで、香りやお茶に近いと言えるかもしれない。 三角形に切れば三角形になるし、水にさらしておけばいずれ溶けてしまう」

 木の繊維を水にといて漉くが、成形や乾かし方次第でペラペラの紙にもなれば、石のような塊にもなる。それはいずれも一時的なあり方で、現象にすぎないという。

「どこまでが梶の木で、どこからが和紙だという境界線も明確ではないですし。自分たちで梶の木を栽培しているので、山からくる養分、水、太陽の光でできていることを知っています。何百年も同じ株から新しい枝が出て、その枝を伐採して紙の原料にするわけで。だから和紙は、太陽でもあり、水でもあり、土でもある。森羅万象なんです」

写真撮影:藤本幸一郎

「山」と思っていたものは「山」ではなかった

紙はそこにあるだけ。いまこの瞬間、その形をとどめている現象にすぎない。リアルにそう思うようになったきっかけがあった。

 2021年の大雨による被災だ。

 8月12日、九州北部地方では線状降水帯が発生し、多いところで24時間400mmを超える雨となった。谷口さんの自宅や工房は、この雨で甚大な被害を被った。

 この時、谷口さんは、自宅が土砂に飲み込まれるその瞬間を、対岸の斜面から見ていたのだそうだ。

「家族では僕だけが消防隊員だったので。家のそばは危険で近づけないし、おまえ上って見てこいと仲間が言ってくれて。向かいの山から家を見ていたんです。さらさらさら…と砂が動く音が聞こえて、すごく静かにさーっと隣の山が砂になって流れてきてがちっと固まったんですよ。混乱していたのもあるけど、すごいものを見たという気持になりました。これって紙と一緒じゃんと。不謹慎かもしれないけど興奮したんです」

「山」だと思っていたものは、その時「山」ではなかった。砂であり、水であり、流れだった。分解されたモノとしての印象が鮮烈に残った。

 ずっと「和紙には何かがある」と思い続けてきたが、この経験から「紙に何かがあるんじゃなくて、見る側の心に何かがあって、それが映し出されるだけなのだ」と思うようになった。紙は現象としてそこに存在するだけだと。

被災前の工房と店 写真撮影:藤本幸一郎

「伝統工芸」の枠でくくられる違和感

 家業に入る前から、名尾和紙が「伝統工芸品」としてくくられることへの違和感があった。

「自分が和紙をつくる意味ってなんだろうと考えました。次世代につなぐとか、技術を絶やさないとか、美しい紙を追求するだけなら、僕じゃなくてもすでに多くの人がやっている。伝統工芸だから無条件に残さなきゃいけないと言われますが、誰かもう少しその理由を教えてよと思ったんです。工芸を残す価値、意味が何なのか」

大学進学のために家を出て、卒業後は大阪でアパレルの仕事についた。幼い頃から和紙づくりは常にそばにあり、職人さんたちに可愛がられて育ったため、家業にネガティブなイメージはなかった。いつかは戻るのだろうと心のどこかでは思っていたものの、継ぐことに、すぐには意味を見出せなかった。

「確かに伝統工芸っていいものですけど、下駄を履かせてもらっている気もするんです。困り顔をするのが得意で、恵まれているのに『大変です』って顔をしがちというか。伝統工芸じゃなくたって、いまの時代みんな生きていくの大変じゃないですか」

写真撮影:藤本幸一郎

 プレゼンテーションが紋切り型だとも感じた。たしかにメディアでも「伝統工芸品」だからこう見せようとする定型に当てはめがちだ。

伝統工芸は切磋琢磨しながら変化し続ける生きている文化というより、作り手にとっても受け手にとっても、閉じ込められる枠になってしまっているのかもしれない。

「自分は、一度も跡を継げと言われたことはないですし、継ぐも継がないも自由でした。でも何の仕事でもそうだと思いますが、一つのことを極めると、そこに法則が見えたり、腑に落ちる瞬間みたいなものがありますよね。それが工芸の世界はとてもわかりやすく継承されていると思ったんです。

だからこそ工芸から導き出される、ものの考え方や捉え方があるんじゃないか。自分がどう世界を見るのか。どう切り取るのか。大げさにいえば、この世の真理をひもとく秘密に近づけるんじゃないかとさえ思ったんです」

工房内で紙漉きする様子 写真撮影:藤本幸一郎

技術では江戸時代にかなわない

2021年の豪雨被害により古い工房が使えなくなり、新しい工房と直営店「KAGOYA」が建てられた。被災したのがお盆に近い時期だったこともあり、今では「じいちゃんからのプレゼントだった」と思えるようになった。

新しい工房は広く、自然光が入り職人からも外の世界が見えるよう、窓を大きくとった。できるだけ自然と一体化するなかで、ものが生まれる環境をつくりたかったという。

工房では谷口さんのお父さん、六代目の祐次郎さんが紙を漉いていた。横には歴30年のベテラン職人の女性。わしゃっわしゃっと水を弾く音が響く。

ガラス張りで工房の中からも外が見渡せる 写真撮影:藤本幸一郎

 どれほど紙漉きの技術を追求しても、いま一日に漉く枚数は、江戸時代の何百分の一になっている。

「祖父が言っていたのは、いま自分たちのレベルは江戸時代の職人に到底及ばないよと。当時は職人の数も多かったわけですし、一人が一日中何千枚も紙漉きしていた。いまとは桁が違います」

谷口さんはもう一つ、面白い話を聞かせてくれた。

「タイのスコータイに、日本の技術で和紙をつくっている工場があって、見に行ったことがあるんです。楮も育てていて、工場では日に5000枚くらい漉いている。なので職人さんの技術がめっちゃ高いんです。紙を漉いたあと伏せて、トントンとして簀桁すけたからさーっと離す。それは日本からの技術でもなくて、彼らが経験を重ねるうちに編み出した、オリジナルの技だと思うんですね。それを見たとき、もう全然これでいいじゃんと思いました」

写真撮影:藤本幸一郎

“何も描かれていない状態”が和紙の本質

 谷口さんの工房の横にはショールームを兼ねたショップが建っており、その入口には和紙の暖簾が揺れている。中へ入ると、天井からさまざまなバリエーションの紙が吊り下げられている。

直営店「KAGOYA」の中 写真撮影:藤本幸一郎

障子の間の小窓からは、里山の風景が切り取られて見えた。 写真撮影:藤本幸一郎
店奥の「和紙の部屋」 写真撮影:藤本幸一郎

 店奥には「和紙の部屋」がしつらえられており、天候や光によって見え方が変化する。ほんのり青みがかったり、グレー、アイボリーに見えたり。中に居るだけであたたかく和紙に包みこまれるような感覚がある。

 店内向かって右手にはクライアントからの依頼でつくったパッケージなどの品。左手には自社のオリジナル商品。名尾では問屋を通して売ることがないため、仕事は直にくる。さまざまなリクエストに応じるうちに、和紙の使い途、幅が広がってきた。

クライアントワーク。棚からは自由なものづくりの雰囲気が伝わってきた。 写真撮影:藤本幸一郎

 和紙はどんな形のものにでもなれる。

「ティッシュとして使われたり、紙ストローとして吸われたり、用途も変わる。そう考えると紙ってめちゃくちゃポテンシャルが高いんですよね」

 そして最近、一つの仮説をもっている。

「どんなモノにも本質があります。機能とも言い換えられますが、たとえばスプーンなら“何かを掬って口に運ぶ”ためにあの形になった。じゃあ和紙の本質は何だと考えると、よく言われるのは、文字を書くこと。昔は木簡と呼ばれる木の板に文字が書かれて、その代わりに和紙が必要とされたと言われます」

だが今は西洋の紙があり、和紙に文字を書く人は少ない。

「そこでもう一つ深いレイヤーで考えてみたんです。そしたら何かを書くためというより、“何も描かれていない状態そのもの”が紙の本質なのではないかと。 そう仮説を立てると、僕たち名尾和紙の職人は『和紙をつくってきた』のではなく『何も描かれてない状態』を漉き続けてきたことになる。そしたらミニマルな世界観が立ち上がって、すごくかっこいいし面白いと思ったのです」

写真撮影:藤本幸一郎

自然がつくる現象が、人の心を映し出す

 まだ何ものにもなっていない状態を、和紙を通してつくり続けてきたということだろうか。

「たとえば入口にかかっている和紙の暖簾も、いま風で揺れていますが自らの意思で揺れているわけではないですよね。光も通しますが、和紙が光を通そうと思っているわけではない。あくまで現象で、自然に身を任せてそうなっている」

和紙に意思はないけれど、周りの環境によってそのものが変化する。

「そう。それでも堂々と存在している。その現象から人が感じ取れることはたくさんあるなと思うんです。たとえば人も、自分のシルエットに固執する必要はないし、それだけが自分じゃない。僕たちはつい自分を大きく見せたり、奮い立たせるようなことをしがちですが、自然に任せて堂々としていればいいんじゃないかとか。和紙を通じていろんな捉え方をすると、ポジティブになれたり、見習わなきゃいけないことが見えてくる」

ショップ入り口の暖簾 写真撮影:藤本幸一郎

紙が、人から何かを引き出す媒介になるということだろうか。

「紙そのものが必ずしも人を引きつける何かを持っているのではなく、人が紙に自分を映してしまう。紙に魅力があるわけじゃなくて、その紙に魅力を感じる人の心のほうに何かがある。映すのは自分。見る側によって変化するのではないかなと」

谷口さんにとっての和紙とは、他者とコミュニケーションするための、あるいは何かを伝えるための手段であると。

「そう見た方が面白いなと思いました。伝統工芸品として継承されることが本質ではなくて、誰かがそれに感動し続けているから残っていると信じたい。そういう効能が和紙にはあって、効能が役に立つから残すに値すると思えるようになったんです」

 それによって作品も変わりましたか?

「変わったと思いますね。必ず“現象”を入れるようになりました。人工的につくる意匠のかっこよさではなくて、自然がつくる現象。たとえば先ほどつくっていた和紙の器も、きれいな形にするには乾くまで放っておく方がいいんです。でもそうなる前に型から外します。紙は濡れて乾燥させるとシワになる。水が抜けるとき、勝手に動くんですよ。それがそのまま形として残る。自分は造形作家じゃないのでそこは『自然にお任せします。どうぞ、乾燥してください』という気持です」

この新作には「かご」と名付けた。ただの容れ物、器として見る人もいるかもしれないし、自然の成した造形、繊維の塊にも見える。

作品「かご」 写真提供:谷口弦

名尾という土地にアンカーを下ろしている感覚

 いっぽうで、名尾和紙には名尾和紙である理由がある。土地性。ここで生まれたという事実だ。この場所でなければできないものづくりをどう捉えているのだろう。

「イメージで言うと、船のアンカー、重しですね。アンカーを下ろしておけば漂流しないので、紐を長くすればわりと遠くまで行けちゃう」

何より、名尾には梶の木が繁る。梶からは離れられない。

梶は東南アジア原産で、古代に大陸から日本に伝わったといわれる。 写真提供:谷口弦

 だからこの先、作品もプロダクトも、名尾という場所をもっと掘り下げたものづくりをしていきたいという。

「この土地をまだしっかり紐解けていない気がするんです。和紙の歴史もせいぜいここ300年ぐらいなので、その前はみんな何やっていたんだろう。なんでこんな山の中に神社があるんだろうとか。土地から導き出されるアイディアでものづくりができると、さらに新しい扉が開きそうな気がしています」

名尾の稲ワラや泥を紙に漉きこむなど、土地のものを素材として作品やプロダクトに活かすのはすでに行ってきた。この先はさらに、土地のものをモチーフとした作品やプロダクトを生み出したいと思っている。

「ここでしかさわれないもの、ここでしか手に入れられないものが一番尊いですから。クライアントワークでも、僕らに依頼がある際は『名尾産でないと』という思いで来てくださる方がほとんどです。その方たちにいい提案をしていくためにも、名尾の自然や歴史、人との関係性の中からしか新しいアイディアは生まれないと思っていて。僕もそういうモノが欲しいと思うんです」

梶はコウゾに比べて繊維が長いため、薄くても丈夫で破れにくい紙ができる。提灯や障子紙などに用いられてきた。写真撮影:藤本幸一郎

取材協力

名尾手すき和紙
佐賀県佐賀市大和町大字名尾4674‐1

直営店「KAGOYA」
電話:0952-63-0334
営業時間:9:00〜17:00 定休日なし / 正月、盆期間を除く

公式HP:https://naowashi.com/

]]>
絹を支える、養蚕の世界|山梨県 富士川町 https://craftweek.jp/column/74182 Mon, 09 Sep 2024 23:04:18 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=74182 地方において、工芸はこの先、いま以上に価値を発揮する秘めた宝になると思う。自然、風土から発展した仕事を、どう変換し、文化として昇華させるのか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、この先、いかに工芸の新たな価値を見出していけるのか、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。


友禅、西陣織などのやかな着物には、人の目を惹く華やかさがある。だがその着物をつくる絹糸がどこからくるのか。お蚕が出す糸でできていることに思いを馳せる人は少ないのではないだろうか。

着物を日常的に着る人はほんとうに少なくなった。ところがシルクの需要は減るどころか増えているという。下着や布団などの繊維だけでなく、化粧品、栄養食…と用途は広がっているためだそうだ。

それでも国内の養蚕農家は、高齢化と、新規参入の難しさから減り続けている。このままいけば養蚕農家はなくなってしまう。お蚕から糸をつくる蚕糸さんしには古くからの歴史があり、さまざまな糸をつくってきた文化がある。また今は海外から安価に買える繭や絹糸も、そうした国々が経済的に豊かになれば、入手できなくなるかもしれない。そんな状況を危惧し、国内の養蚕をすたれさせたくないと考える一人の農家がいる。豊かな糸の文化を残すために。アシザワ養蚕の芦澤洋平さんは、何とか蚕糸の仕事をつないでいこうと働きかけている。

「蚕糸の日決起会 2024」の様子

「蚕糸の日」決起会

2024年3月4日。東京・農林水産省のある会場には80名近くの人が集まった。会は「蚕糸さんしの日」決起会。発起人には、アシザワ養蚕の芦澤さんをはじめ、大日本蚕糸会、碓氷製糸(株)など、関連業界の方々が名を連ねるが、最初に声をかけたのは芦澤さんだった。

まず示されたのは業界関係図。蚕の卵を提供する蚕種から、衣服ができるまでを示したフロー図でもある。

「蚕の卵を提供する蚕種から、衣服ができるまでを示したフロー図」
「蚕糸の日決起会2024・まとめ資料」(提供:芦澤さん)を参照に作成

絹はお蚕の出す糸からできている。着物になるまでには、お蚕の卵を育てる蚕種さんしゅ、お蚕を育てる養蚕、製糸、撚糸ねんし……といくつもの工程を経て、着物などの衣服ができる。繊維になるまでにもいくつもの仕事があって、それぞれに関わる人たちがいる。

「養蚕農家戸数と繭生産量の推移(出典:大日本蚕糸会シルクレポート)」「蚕糸の日決起会2024・まとめ資料」(提供:芦澤さん)より

国産繭の生産量と養蚕農家の数をみると、2000年に1244トンあった生産量は2023年時点で45トンに。養蚕農家は2000年に3280軒だったのが、2023年には146軒にまで減った。この傾向が5年続くと、2028年には生産量20トン、65戸になる予測だという。

現在、国内の絹製品を成す国産生糸きいとの割合は、たったの0.16%。残りの99.84%が海外の繭・製糸で生産されている。それも、国産の繭は海外産と同等の金額(kg 1100円程度)では生産価格を下回ってしまうため、3000円前後は市町村や第日本蚕糸会からの補助を受けて成立している。

それでも、絹製品が高値で売れるのに対して、原料の繭にはそれに見合った額が支払われていないということだろうか。蚕糸の会決起会では、印象的な場面があった。

「アポなし商談寸劇」のワンシーン。琴の絃には、本来やわらかな絹糸が使われる。絹弦メーカーに、「もしもし」と電話をかけるポーズで芦澤さんが声をかける。

「複数の養蚕家がつくった繭からの弦づくりと、それを使った和楽器の演奏会を行いませんか? 音が違いますよ。実現したら、面白いと思うんです…ご関心はありませんか?」「いいですね、企画は可能です」


「農林水産省さんは、こういう取り組みがあったら応援していただけますか?」「はい、もちろん」「ではみなさん、演奏会、実現できたら、いらしてくださいますか?」大勢の人が手を挙げた。


最後にもう一つ、と絹弦メーカーに問いかける芦澤さん。
「お願いなのですが、この企画が実現したら、養蚕家にも、演奏家に支払う謝礼と同じ額を支払うことを、ご検討いただけないでしょうか?」
一瞬、会場は静まりかえった。そして、盛大な拍手が起こった——。

日本の養蚕

養蚕の歴史は古い。日本でも弥生時代初期には、すでに養蚕が行われていたらしい。そして、絹の重要性について、ある書籍では冒頭にこう書かれている。

「一匹の虫が作る生糸、そしてその生糸で織った絹が、政治や外交に係わり、一国の経済を支え、文化の形成にあずかり、応用と基礎の学問を促し、かつ文化人類学の諸課題を提供し、またときには戦争の原因にまでなったといえば、いささか誇張ではないかと思われるかもしれないが、しかしこれらは、いずれも事実である。つまり絹や生糸はそれほどまでに、人間の社会と深く係わってきた」(『ものと人間の文化史・絹』より)

国内での生糸(蚕がつくる繭からとれる繊維)の生産のピークは1934年(昭和9年)。大正時代には、国策としてかなりの割合が輸出されていた。そのあと戦後のピークが1969年で、1975年頃から2000年頃にかけて生産量が激減している。

芦澤養蚕の工房の一室

数少ない、量産できる養蚕農家

アシザワ養蚕は山梨県巨摩こま郡で150年続く養蚕農家である。国内では残り少ない、最大20万頭を飼うことができる量産型の農家だ。年間で1500キロほどの繭を生産できる。
(※お蚕は家畜として扱われているため、「匹」ではなく「頭」で数える)

夏の暑い一日、アシザワ養蚕を訪れた。飼育場には、2メートル×30メートルほどの台の上に桑の葉が積まれ、あちこちにお蚕が吸い付くようにして葉を食んでいた。

一日に3回は桑の葉を与える

お蚕は、小さい方から1齢、2齢と数え、脱皮をくりかえしながら徐々に大きくなって5齢になって繭をつくる。芦澤さんが説明してくれる。

「いま、ここにいるのは3齢のお蚕さんです。3日ほどで脱皮して4齢になります。4齢の期間は少し長くて4日前後でまた脱皮を迎えて5齢に。孵化から繭をつくり始めるまでに約25日~28日ほどでしょうか」

お蚕を育てるのは、おもに桑の葉が伸びる5〜10月。35度を超える暑さでは、蚕も弱ってしまうそうで、真夏の暑い時期は飼育する数を減らす。

聞いて驚いたのは、お蚕は遠くまで餌を求めて移動したりしないということだ。ほとんど目が見えず明暗がわかるほどで、目の前まで桑をもっていかなければ食べることができない。シルクを得るために人によって家畜化され、野生では生きられない。ずいぶんな宿命を負わされた生き物だなという気がした。

「うちではすぐ近くに、3ヘクタールの桑畑をもっていて、今朝も朝6時から桑を刈りに行きました。日に2回刈って、与えるのは日に3回。いまはセミの声にかき消されて聞こえませんが、静かな時は、葉を食む音がサワサワサワサワ…と聞こえます」

体は小さいのに、お蚕は想像以上に大食いで、養蚕農家の仕事の大部分は、桑の葉を与えるのに費やされる。お蚕は桑の葉を食べ続けて大きくなる。

3齢のお蚕。このあと4齢、5齢と成長して繭をつくる
近くの桑畑。3ヘクタールで栽培している

国産の絹がなくなるとどうなる?

芦澤洋平さんは、次男。家業とはいえ、なぜ養蚕を仕事として選んだのだろう。

「もともと動物は好きで、稼業を振り返ってみると面白そうだなと思って。やる人がいなくて、希少じゃないですか。もう製造されていない機械がほとんどなので、これだけの規模を揃えるのは難しいしもったいない。この設備を生かさない手はないと思いました」

電動でいくつものバスケットの連なりが前後、上下に動く。中には桑の葉とお蚕が入っており、風通しをよくするための機械

芦澤さんのところでは最大20万頭のお蚕を一度に飼うことができる。その4割は絹糸にするため製糸会社に卸されるが、6割はシルクパウダーとして販売する。その方が効率がよく、糸だけでやっていくのは厳しい。安価な輸入品との価格差が大きく、助成金をもってしてもぎりぎりやっていける数字ではない。

それでも、100%シルクパウダーにしようとは思わないのは、「蚕糸には蚕種、製糸などさまざまな立場の人たちが関わっていて、養蚕農家だけ救われてもだめだから」と芦澤さんはいう。

そもそも国産の絹糸がなくなると、何が困るのだろう?

一つは海外から手に入らなくなるリスク。入手できなければ絹の着物はもうつくることができなくなる。

さらに国内で繭が手に入らなければ、多種多様な糸をつくる試行がしにくくなり、面白くなくなります、と芦澤さんは話した。

「ものの原料に近いところで選択肢をもつほど、クリエイティブなことができます」

国産の生の繭がなければ、すべてが乾燥繭になってしまい、今ほど光沢のある糸はつくることができないと話す糸関係者もいた。平たくいえば、多彩な糸をつくる手段を失うということだろう。

「養蚕農家の中でもパウダーの話は10年前ぐらいから出ていたんです。でも多くの農家はそちらに手を出しませんでした。養蚕をやってきた人たちからすると、繭を糸にしないなんて考えられない。せっかくいい糸にできる繭を切るなんて、ということですね。それはある意味では自信だと思うし、誇りでもあると思います。だから僕も、6割はパウダーにしていますが、100%そちらに振り切ることはやっぱりできないんです」

ある林業家がせっかく立派な樹を育てたのに、お金になるからといってチップにしてしまうには葛藤があると聞いたことがある。それに似た話かもしれない。

お蚕さんとの約束

そしてもう一つ、芦澤さんはこんな話を聞かせてくれた。

「6000年前から今まで、人はお蚕を育ててきました。その間に何が起きたかというと、絹織物の売買のためにシルクロードができ、お金を交換する必要性が生まれます。言語、文化を超えて人は交流し、人間社会が広がってきたわけですよね。それはつまりシルクの元になる、お蚕のおかげだったと言ってもいい。お蚕さんが人間の発展を促してくれたという不思議ですね」

これだけ日本で養蚕を続けることが困難でも、芦澤さんが諦めたくない、このまま辞めるてしまうのは悔しいと感じるのはなぜなのだろう。

お蚕は自分で生きることをやめて人間に託したのだと芦澤さんは言う。

「人間が桑の葉を持ってきてあげないとお蚕さんは生きられません。遺伝子をつないでいけない。ある意味、生命のサイクルを委託しているわけですよね。 僕はこれ、ある種の約束に近いものだと思うんです。今年も来年もちゃんと育てるから、活用させてくださいって。そんな関係が6000年も続いてきた。だからそこには、人がお蚕さんを育て続ける義務というか約束があると思うんです。

アシザワ養蚕も150年続いてきて、その間に何億頭のお蚕を殺してきました。その責任がある。だから人の都合で売れないから、稼げないからとやめるのは、僕は情けないし、申し訳ない。お蚕さんに対する裏切り行為というと言い過ぎかもしれないけど、やっちゃいけない約束違反に思えるんです」

ほかの生き物の命を奪って人間が活用してきたのは、なにもお蚕に限った話ではないけれど、自分たちの暮らしがほかの命を犠牲にした上に成り立っていることを、肌で感じて知っている人の言葉に聞こえた。直接お蚕と接する現場にいなければ、理解し難い感情かもしれない。

そして、芦澤さん自身、まだまだ国内の養蚕もやりようがある、と考えている。きっとお蚕さんと人の関係性を、今の時代にアップデートすることはできる。100%糸にする養蚕のみで専業は難しいかもしれないが、兼業で小さな規模の「ミニマム養蚕」を増やし、芦澤さんのところで一括で売ることができればいい、という案はその一つ。国産シルクで、着物ではなく、現代の人々に身近な衣料をつくる選択肢もある。最近はシルクのインナーやガウンなど肌にふれるものが増えている。糸にする以外の繭の販路も、もっと検討すべきだろう。

着物のような美しいものが人の心を打つとき、その背後には、道具や材料をつくる多くの人たちの仕事がある。養蚕に欠かせない蚕種や桑の苗をつくる農家も重要な役割を果たしているが、いずれの分野も、従事者は教えるほどしか残っていない。

糸以外でもシルク産業を経済的に成り立たせること、それと同時に蚕糸の文化を守る。養蚕の世界では、いまその両輪が求められているのかもしれない。

]]>
里山に「職人ビレッジ」を|島根県 温泉津 https://craftweek.jp/column/73594 Wed, 10 Jul 2024 00:47:01 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=73594 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

2020年より再生を始めている、島根県温泉津の里山「Mujun Planet」(写真提供/里山インストール 以下すべて)

小林さんを初めて取材したのは、2015年。すでに兵庫県小野市の地場産業である「播州刃物ばんしゅうはもの」を海外展開するなどリブランドを軌道にのせていた。プロダクトデザイナーを名乗るが、狭義のデザインではなく、モノの生まれる背景から流通にまで着目し改善策を提案する。

その後、小林さんが小野に「MUJUN Workshop Ono」を立ち上げたのは、2018年。現地を取材してよくわかったのが、高齢化による後継者問題の深刻さだった。

ベテランの鍛冶かじ職人はほとんどが70〜80代で、弟子をとることが難しい。そこで、後継志望者が学べるスタジオを別に用意して、その時もつ技術で製造できる商品を販売しながら、通いで職人に教わりにいくスタイルで、後継者を育てる取り組みだった。

当時、スタジオで働き始めていたのは20代と40代の男性が2人。いま4名に増えているが、当初から続いている一人は5〜6年目の中堅になっている。

兵庫県小野市にできた播州刃物の後継者向けスタジオ「MUJUN WWorkshop Ono」

この小林さんが、2020年に島根県大田市温泉津ゆのつに里山を買ったと聞いたときは驚いた。ものづくりの原点に立ち返り、「暮らし、道具、ものづくり」の生態系を構築し直すチャレンジをするという。考え方にはすぐに共感できたが、現実問題として、荒れた山を開墾して野鍛冶の場をつくるという話は気の遠くなるような話に思えた。

里山での暮らしは自然と隣り合わせ。鎌や斧などの道具が多種必要で、鍛冶仕事は欠かせない。かつては村に一人は野鍛冶と呼ばれる職人がいて、道具をあつらえたりメンテナンスしてくれた。日本の山村を訪れるなかでそのことを知ってはいたものの、鍛冶職人は減っていて、なかでも野鍛冶は絶滅危惧種である。

田舎でも人の暮らしはすっかり山や自然の巡りから離れてしまい、量販店には使い捨ての刃物が並ぶ。

そんな現代に、なぜ改めて「里山の再生」なのか。道具をとりまく生態系の結び直しなど、果たしてできるのだろうか? 今回新たに里山の古民家を改修するにあたってクラウドファンディングを始めたという小林さんに、話を聞いた。

小林新也 こばやし しんや

「合同会社シーラカンス食堂 / MUJUN」代表、クリエイティブディレクター・デザイナー、「合同会社里山インストール」代表。播州刃物や播州そろばん、石州和紙、京都の伝統工芸品などの商品、技術、伝え方、意識のイノベーションに携わる。2016年、商品ブランド「MUJUN」をオランダで立ち上げ。2018年に地元の刃物職人の後継者育成を目指して「 MUJUN Workshop Ono 」を設立。2020年から、誰もが職人になれる村「MUJUN Planet」を島根県温泉津につくり始め、2021年には「合同会社里山インストール」を設立。地場産業や地域の営みと暮らしのあり方の未来をデザインしつつ、世界中に販路を持って活動を継続している。

里山にヒントがある「ものづくりの本質」

甲斐かおり

初めて私が温泉津の山を訪れたのは2021年の春でした。小林さんたちが田んぼをつくられていた頃で、その後も何度か見せていただいていますが、毎回どんどん進化していて驚きます。山から木を伐り出してユンボを使って、製材できる環境を整備して…と今4年目ですよね。

小林新也

そうですね。だいぶ進んで、やっと敷地内の古民家を活用しようという段階にきています。まずは山を整備しながら伐った木を木材として使えるようにしてきました。ほかにも山から採った材料でものづくりができる環境を整えたいと思っています。蔵と母屋の台所を鍛冶場にして、それ以外はほかのものづくりができる場にする予定です。小野から一人、鍛冶職人の女性が移住したのを機にクラウドファンディングに挑戦しています。

甲斐かおり

当初「誰もが職人になれる村」をつくりたいと話されていました。始めた理由を、改めて教えていただけないでしょうか。

小林新也

いつか島根で暮らせたらいいなと思っていて、コロナで時間ができた時に、空き家でも探そうと見に来たんです。すると温泉津というまちに、過去に砂鉄からはがねをつくっていた“たたら村”の跡を発見して。その周囲の山には、石垣など里山暮らしの痕跡が残っていました。地元の人が「昔はみんな職人だったけぇな」と言うのを聞いて、それがものづくりの原点かもしれないと感じたんです。

甲斐かおり

必要な道具は自分たちでつくっていたということですよね。生活で使うものは山や田畑から材をとってきて、道具や衣服にしていた。暮らしとものづくりが密接だったんですね。

小林新也

山を管理すると伐り出した木材が燃料にもなるし、ものをつくる原料にもなる。米をつくると、藁灰わらばいや籾殻が出て燻炭くんたんなど鍛冶につかえる素材ができる。暮らしの一部にものづくりがあって、自然にも還元されていくという循環がありました。

甲斐かおり

サステナブルやサーキュラーと言わなくても、衣食住があたりまえに自然のなかにあって、材料を取り過ぎずに再生産されて循環していた。人が自然の営みにあわせて暮らしていたんですね。

小林新也

そうなんです。日本で人が自然から離れて里山暮らしがなくなっていったのはここ100年ぐらいの話ですよね。でも、伝統産業が生まれたのはもっと前。そこにヒントがある気がしました。それでやっと気づいたのが、自然からいただいたもので土地にあった暮らしをして、その風土にあったものづくりをすることが“地場産業”なんだなと。それが伝統になって、伝統産業や伝統工芸と呼ばれるようになっていったにすぎない。

甲斐かおり

はじめにその話を聞いたとき、私もちょうど地域文化のことを書く意味を考えていて「地域の暮らしには風土が切り離せない。風土が生業や文化や環境すべての土台にある」ってことにたどり着いた時期で、すごく共感したのを覚えています。懐古趣味ではなく、この先を考える上で地域の文化に目を向けるのが大事だなと思うようになりました。

小林新也

そうですよね。でも今のものづくりはそこから離れてしまっている。経済主体になって生産性を追い求めて、同じことをひたすら繰り返してものづくりする人が職人という認識になっている。もともと職人は、生活のなかでより少量多品種をつくっていたんじゃないかなと思います。そこで僕、土地を買ったんです、温泉津の里山を。ここならまだ間に合う。すごい可能性があるなと思って。

木材を伐り出し製材するところから着手していった
里山の一部は田んぼにして米づくりも。ボランティアが大勢参加して再生活動をしてきた。道具と里山での生活が密接であることを体験できる

産地の厳しい現状。職人が消えていく不安

甲斐かおり

でもいま現実には人が里山からどんどん離れてしまっている状況ですよね。それをゼロからつくり直そうとすることに、尊さを感じながらも、果てしない行為のようにも感じます。人が里山とものづくりの関係を体験できる、象徴的な場をつくるイメージなのでしょうか。

小林新也

この里山再生にはもう一つ、すごく現実的な理由があって。このままいくと、自分たちが関与できない理由で、ものづくりができない世の中になっていくという切実な危機感があります。すでに、産業規模のものづくりのシステムは成り立っていない。産業構造のいびつさや高齢化で、いくところまでいってしまったと感じています。なので、いったんもう諦めてやり直すほうが早いんじゃないかと。

量産型のシステムを、それこそ甲斐さんの本の“ほどよい量”じゃないですが、そこに合わせていくより、ゼロベースでしくみを作り直して、ほどよい量を探るほうがやりやすいんじゃないかって話です。

甲斐かおり

それでも地元の小野では、2018年に播州刃物の後継者を育成するためのスタジオを立ち上げて、いまも3〜4名はそこで働いているわけですよね?

小林新也

はい。そのうち一人は、すでに総火造鍛造そうひづくりたんぞうで盆栽バサミをつくれるところまできています。でもいくら優秀な後継者が育っても、ものづくりの世界は材料や道具が生態系のようにつながっていて、どこか一部でも欠けると、連鎖的に総崩れになってしまうんですね。

甲斐かおり

具体的には、何が起きているんですか。

小林新也

第一に、原料が手に入らなくなりつつあります。最近は「利器材りきざい」という、鉄とはがねをあらかじめくっつけた板材を、プレスで抜いて削る手法で刃物をつくる鍛冶屋も多いのですが、小野の利器材屋が一軒廃業したために、10軒ほどの鍛冶屋が連鎖的に廃業しました。需要はあるのに、利器材をつかったものづくりが強制終了したんです。

甲斐かおり

ほかの産地から利器材を仕入れる選択肢はなかったんですか?

小林新也

鍛冶屋が何軒かまとまって仕入れるなら売ってくれるところはあったかもしれませんが、皆さん廃業されてしまって。80代の方も多いので、ごく自然に引退される形で。残すは、完全手づくりの総火造鍛造ができる鍛冶屋です。

そちらは約10年前から後継者をなんとかしようと働きかけてきて、いまにぎばさみは、世界で一人の水池長弥さん(80歳)が2015年から弟子を取ったおかげで、寺崎研志さん(44歳)へと引き継がれています。たった一人から一人への後継ですが、もしこの働きかけをしていなかったら今頃、握り鋏も生産終了になっていたはずです。

もう一つがうちの「MUJUN Workshop Ono」の取り組み。弟子入りが難しいなら近くでトレーニングできる場所をつくろうとしてきました。(詳細はこちらより)でも、その総火造鍛造の原料である高炭素鋼(株式会社日立金属安来製作所・現プロテリアル安来製作所の白紙)も、近く手に入らなくなるかもしれないという噂があります。

握り鋏の世界でただ一人の職人、水池長弥さん(80歳)
世界でただ一人、握り鋏(にぎりばさみ)の職人、水池長弥さんによる総火造鍛造の様子
小林さんたちの働きかけにより、役場をはじめサポート体制が整い、約10年前に水池さんへの弟子入りがかなった寺崎研志さん(44歳)
寺崎さんの握り鋏
甲斐かおり

使う人が減れば、原料も売られなくなるという原理ですよね。

小林新也

それもありますが、高齢化など理由はさまざまです。利器材屋が廃業したのは機械が壊れたからで、需要がなくなったからじゃないですし。ただ共通しているのは自分たちの関与できない理由で、原料や道具が手に入らなくなるってことです。

甲斐かおり

それで、廃業された鍛冶屋さんから、機械や道具も集めているんですね。

小林新也

そう。二つ目には道具がなくなっていくという話。放っておくと、廃業したあと、今はもうつくられていない貴重な機械がスクラップされて鉄屑になっちゃうんですよ。いま同じ機能の機械を新しく仕入れると高額な投資になります。職人が独立する際にそれだけの投資をするのは現実的じゃない。

甲斐かおり

後継者がいたとしても、満足にものづくりを続けていける環境ではなくなっているということですね。

小林新也

そうです。彼らの将来は今のままでは報われない。産地ではいまだに問屋の力が強くて、水池さんの後継者である寺崎さんに、問屋がもってくる仕事は量産型の利益の低い仕事です。特殊な刃物のオーダーも来ているので、そうした付加価値の高い仕事に時間を割きたいはずなんですが、問屋との関係性も大事にせざるをえない。量産型の産業構造が変わらない限り、独立しても職人が報われることはないんだなと。

甲斐かおり

そうした背景がすべてこの里山再生につながっていると。

小林新也

世の中から職人が消えていく不安が拭えないんです。里山で原点に向き合って初めて安心できるんじゃないかなと思う。今は安心できないんですよ。

兵庫県小野市を産地とする播州刃物
総火造鍛造では、鉄を叩いて洗練された刃物の形に仕上げていく
海外の展示会では、研ぎのワークショップも行ってきた
品質の高い刃物は、国内外から需要がある。だが産業構造の問題から後継者が少なく持続が難しい状況を迎えている

原料の鋼(はがね)をつくる「たたらキャンプ」を予定

甲斐かおり

ということは、原料から自分たちでつくってしまおうと?

小林新也

そうです。温泉津に着目した一番の理由は、砂鉄が大量に採れることです。もともと“たたら”の場所なので。はがねをつくるには炭も必要ですが、里山から木を切り出して炭もつくろうと思っています。

甲斐かおり

また気の遠くなる話にも聞こえますが、Workshop Onoもはじめは遠回りに思えたけれど、すでに6年経って、中堅の職人さんが育っていると伺うと、少しずつでも着実にやっていけば現実になっていくのだと思わせられます。

小林新也

原料づくりは、まぁ最初は年に一度くらいのペースで。この夏初めて「たたらキャンプ」を計画しています。一斗缶を4つ重ねたくらいの規模感ですが、砂浜で、砂鉄と炭を交互に入れて燃やしていくと、ケラというものができて、その中に鋼が含まれます。刀一振り分くらいは鋼が生成できるので、ハサミなどに使うには相当な本数分採れるのではないかなと思っています。

甲斐かおり

すでに計画があるんですね。

小林新也

ひたすら暑くてきつい作業なので、暑くなったらすぐ海に飛び込めるように海のそばでバーベキューしながら、楽しくみんなでイベント的に開催できるといいなと思っています。このときは小野のメンバーも呼んで一緒に。

甲斐かおり

鋼に限らず、里山から木や竹など材を得ながら、暮らしとものづくりを循環させていく実験的な場をつくりたいんですね。

小林新也

そうです。木材を乾燥させて製材加工する環境はすでに整ったので、家を建てたい人は建てられますし、竹で何かしてみたい人がいたらできますし。

温泉津のある砂浜には、砂鉄が大量に堆積している。ここでたたらキャンプを行うことを計画中
里山の敷地内で木材を乾燥させられる設備も整った
里山から伐り出した木材を、東京に運び店舗什器として活用

誰もが職人になれるはず

甲斐かおり

最初にお話を伺ったときは、もう少しプロの職人が集うビレッジをイメージしていましたが、誰もが山やものづくりにひろく関われる場にしていきたいんですね。

小林新也

要は、職人になる人を増やしたいんです。もっと気軽に、みんなものづくりしたらええやんって思うわけです。そんなに難しいことじゃない。職人をすごいと思いすぎているけど、みんな自分でつくれるよって。手を動かす経験が圧倒的に足りていないと思います。だから今何でもお金で買うしかないわけじゃないですか。

甲斐かおり

まずは気軽にものづくりできる場をということですね。すると、宿泊機能や、教育的な機能もある体験施設のような場になっていくのでしょうか。

小林新也

それもあります。まずは里山の暮らしやものづくりに興味のある人たちに、ひらかれた場であることが重要だと思っています。来たら誰でも山に入れる。みんな一度は山でものづくりの体験をした方がいいと思っていて。

たとえばデザイナーと呼ばれる人たち、この世にものを生み出す責任を負っている人たちは、山に入るのを必須科目にした方がいい。デザインの教育は都会を向いていて、キャドの使い方や、イラストレーターの使い方は教えてくれるけど、刃物の研ぎ形なんて誰も教えてくれない。

甲斐かおり

すべての道具を自給するわけじゃないにしても、自分の手でつくってみたり、つくるという地点に立ってみるのが大事という話ですよね。食べものも同じで、プロの農家のようにはいかないけど、素人ながら野菜を育てると見えてくることがたくさんあります。

そうした手を動かす経験、身体感覚としてものづくりに向き合うことが圧倒的に足りない。でも、やってみたくても周りにそうした環境がないとハードルが高い。

小林新也

はい、気軽に道具のことを相談したかったらここへ来たら野鍛冶がいるよと。それに、国内外問わず、いろんな人が出入りする場だといいなと思っています。アーティストインレジデンスで毎年アーティストを受け入れていく予定ですが、海外から来たクリエイターと新しいチャレンジをしていきたい。バックグラウンドの異なる人たちが集まって、いろんなアイディアが生まれる。そこに興味があるんですよね。

「大地の再生」として多くのボランティアが集まり整備や再生活動を進めてきた
小野市のMUJUN Workshop Onoで鍛冶修行をするメンバー。山口小春さん(左から二番目)が温泉津の里山で野鍛冶として働く決心をした

現代の生活に里山の要素を取り入れられるブランドを

甲斐かおり

今の時点でビジネスとして考えられていることはありますか?

小林新也

嘘のない、しっかりしたブランドをつくりたいなと思っています。そこは自分の本分のプロダクトデザインを通して。嘘がないってのは、量産しても環境負荷をかけないとか、つくり続けられるという意味です。

今試作しているのは、囲炉裏です。薪ストーブと囲炉裏のあいのこのような、現代の生活にも里山の要素をインストールできる商品をつくっていきたいと思っています。囲炉裏のまわりには、鍛冶の道具も多く必要になるので。

甲斐かおり

いいですね。昔のままの囲炉裏ではなくて、現代の暮らしにも、すっとおさまるようなおしゃれなものがあるとすごくいいですね。

小林新也

そうしたブランドが確立したら、ショップの機能ももつことになるかもしれない。温泉津を観光的に盛り上げたいというより、里山でインパクトのある実験的なことをしていきたいのです。設備というよりプロダクトの感覚で小水力発電できる装置の実験も始めています。

甲斐かおり

現代の生活に里山の要素を取り入れられる形にしていけるといいですよね。

小林新也

まさに。だから温泉津のほうの社名は「里山インストール」なんです。テクノロジーを否定しているわけでは全くなくて、むしろ最先端のことを取り入れていきたい。

山には上流から清流がながれる沢もある
今回改修しようとしている、山のふもと、敷地内に建つ古民家
完成した際の内観のイメージ

工芸と自然の関係を問い直す必要があるのでは

甲斐かおり

ずっとものづくりの現場を情熱をもって見てこられた小林さんが、今のシステムにはもう限界がきていて、いったん諦めたという話は衝撃です。だからこそ、遠回りに見えても、いったん質が落ちても、原料から自給できるしくみをつくり直そうとしていると。鍛冶に限らずほかの分野でも、原料が足りない、道具がないという話を耳にします。やむをえず原料から育て始めている職人さんも出てきていますよね。和紙も、漆も、藍も、取材すると原料や道具の話になりました。

小林新也

量産型のしくみは、もう成り立っていないですよね。次々にいろんなものがなくなっていっている。ある日気づいたら原料がない、道具がないで突然ものづくりができなくなるなんて、普通に想像できます。それを阻止するには、自分たちで、今のうちから手を打つほかに方法がないって話ですね。

僕の周りでは、播州刃物もそろばんも播州織も似たような状況で、基本的には成立していない。林業もそうですよね。

甲斐かおり

補助金なしには成り立たないという面では同じかもしれませんね。まだ間に合う引き継げるものは引き継ぎながら、新たにつくり直すつもりでってことですね。

一方で、職人が数をこなして洗練されたレベルの高い品をつくる世界と、誰でも自由にものづくりをする世界があるとしたら、前者が美的要素まで兼ね備えて工芸と呼ばれるようになった歴史があるわけですよね。それについては、どう思われますか?

小林新也

それはもちろん、数をこなしてきた人だからこそたどり着ける境地が、絶対あります。訓練なので。1つのものづくりを、ずっと続けることは誰にでもできることじゃない。そこにこれまでの職人の凄さがあるというか。刃物のベテラン職人は、短時間で国宝級のすごい精度のものをつくりますから。

でも一方で、それが職人像だと思っている時点で、自分たちにも量産の概念が染みついているんだなとも思うんです。

甲斐かおり

同じものを何百個も何十個もつくるのは、日常で使うだけじゃなく、流通させる時代に適応して始まったってことですね。

小林新也

そう、もともとは、もっと少量多品種のものを、地域に根ざしてつくっていたはずです。この国土のほとんどは山林で四季があって、日本人はときに猛威を振るう自然と向き合いながら生きてきた。うまく自然を活かして生活でつかう道具と、自然に対して畏敬を表すためにつくった神社など宗教的なものづくりの二つの方向性で、工芸が磨かれていったと思うんです。

なので「工芸職人」とは、「自然を活かして自然に生かされる人」を言うんじゃないかと思うようになりました。

甲斐かおり

自然界から素材を取ってきて、人が使う形に変えられるスキルのある人。

小林新也

はい。かつそれが自然破壊にもなっていない。自然のサイクルや成長スピードをわかった上で、使っていい量、ほどよい量をわかっている。それはやっぱり、山に入っていないとわからない。今の「伝統工芸士」と呼ばれる人たちのなかで、それができる人はどれだけいるのかなって。

4年間里山と向き合って、僕が今の工芸界というか、分業の進んだ日本のものづくり界に違和感を覚えたのはその点です。その両方を理解できて実践できている人だけが、本当は職人と名乗っていいんじゃないかと思うくらい。職人像を定義し直すべきなんじゃないかなと思います。

甲斐かおり

工芸の本質的なところは、自然との関係性にあるんじゃないかという話ですね。

自然との関係を取り戻すために里山に入って、循環型の暮らしを実感してみるところから始めるのがいいという話にとても共感します。そのための里山再生で、かつ今回の職人向け工房の設立。知ればまず道具の必要性がわかり、木や竹が道具になることも実感としてわかる。

これまでに大勢が里山再生の活動に参加してこられた事実をみても、そこに立ち返る必要性を肌で感じている人が多いのかなと思います。鍛冶やものづくりに限らず、衣食住すべてにつながる原点が里山での暮らしにある。そこからまず始めてみようという話かもしれませんね。

クラウドファンディング:「里山の鍛冶屋から始まる!持続可能なものづくりのための工房」

https://camp-fire.jp/projects/748161/view

]]>
和ろうそくの原料、ハゼノキ|鹿児島県錦江町 https://craftweek.jp/column/73140 Fri, 10 May 2024 01:23:31 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=73140 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

大手電気メーカーの社員だった内田樹志さんは、会社を辞めて、いま鹿児島県錦江町きんこうちょうで和ろうそくの原料「ハゼノキ」を栽培しています。ハゼノキという植物に新たな使い道、将来性を感じたからなのだとか。
“素材の民主化”を提案する内田さんの話を聞いていると、確かに素材の可能性を感じます。経済合理性だけではモノの価値が測れなくなった今、一度は「非合理で使えない」と烙印を押された工芸品の原料も、使い方や生産方法を工夫すれば、新しい素材になりうるのではないか。
素材のもつポテンシャルについて、内田さんとともに考えます。

内田樹志 うちだ たつし

大阪府出身。ハゼノキの育成と文化の普及を推進する「めぐる」共同代表。総合電機メーカー、AIベンチャーを経てハゼノキの故郷大隅半島へ移住。ハゼノキと木蝋を中心に、工芸や民芸の「素材」に着目し、放置林や耕作放棄地といった使われなくなった土地を活用した、素材生産の新しい循環を模索中。

照明器具にできなかった、和ろうそくの1/fのゆらぎ

洋ろうそくに比べ、和ろうそくの炎はより大きな炎がゆらゆらと揺らぐのが特徴です。火には人を自然のリズムとつなぐ力があるのかもしれないと思わせるゆらぎです。

甲斐かおり

内田さんはなぜハゼノキの栽培を始めようと思われたのでしょう。日常の中で和ろうそくに触れる機会はなかなかないと思うのですが。

内田樹志

前職の家電メーカーで、照明器具の営業開発や販売に携わっていて、灯りに関心があったんです。いろいろ勉強しているうちに、和ろうそくに出会って「なんだこれは…」と衝撃を受けました。大きな炎、温かみのある色、そしてその炎が風もないのに揺らいでいる。その頃から余暇に和ろうそく屋さんめぐりを始めて、コロナ禍で時間が空いて自分で何か始めたいと考えたとき、和ろうそくの火を思い出しました。

甲斐かおり

私も和ろうそくの灯を見せていただきましたが、炎が大きくて、見ているだけで不思議と気持ちが落ち着きますよね。
実際に、内田さんは照明器具として、和ろうそくの灯りのゆらぎを再現しようと試みたと伺いました。

内田樹志

そうなんです。僕はエンジニアではないので、揺らぎや色味のデータを開発者に渡し、和ろうそくのような光を人工的に再現できないかと頼みました。1/fのゆらぎと言われるものの再現で、ずいぶん色々試みてくれて再現はできたのですが、サイズ感や経済性の面で実現が難しかったんですね。似た商品も出ていますが、技巧的に揺らぎを見せているだけで、本質的な光の構造とは違うものです。その再現できない点が自然界ってすごいなぁと。もともと面白いなとは思っていましたが、めちゃくちゃ面白いな、に変わりました。

甲斐かおり

そこから深掘りしていくんですね。和ろうそくは、和紙をったものにイグサのずいを巻いて灯心にして、ハゼノキの実からできる木蝋もくろうを塗り固めてつくられるんですよね。まず内田さんはどんなところから入っていったんですか。

内田樹志

和ろうそく屋さんをまわりました。はじめはろうそくづくりからやってみたいと思っていたんです。でも巡ってみると、意外と同世代の後継者がいることがわかって、ああこれは職人になることが自分の役割ではないなと感じました。それより、皆さん、素材と道具が足りないと仰るんです。素材の話に強く惹かれて、原料のハゼノキに着目してみようと。でもハゼノキのことを知りたくても、どこに行って誰に会ったらいいのか、そもそもハゼノキを育てている人が国内にいるのかどうかもわからない。自分がメーカーにいたこともあり、素材へのアクセスポイントが全くないことが不思議でした。そこで、これからの世の中、その整備が必要なんじゃないかと感じたんですね。

甲斐かおり

工芸のどの分野でも、最終製品を形にする職人さんは注目されやすいですが、原料や道具をつくって支えている人たちにはなかなか光が当たらないですよね。知らない間に、原料をつくる人がいなくなり、道具をつくる職人がいなくなり、文化そのものが廃れていく…といった状況があらゆる工芸の分野で起き始めているなと感じます。

内田樹志

まさにそうなんです。のちにわかったのは、いま全国で木蝋を製造しているのは5団体ありますが、ある程度の量(*)のロウを法人として製造しているのは2社のみ。自社の畑でハゼノキの栽培をされているところもありますが、それ以外は副業的にハゼノキを栽培されている農家から実を仕入れています。

甲斐かおり

副業的にハゼノキを栽培される農家が減って、原料が入手しづらくなっているんですね。

内田樹志

はい。2社で、全国の和ろうそく屋さんに必要な木蝋のほとんどをおさめています。和ろうそくは洋ろうそくと違って、煤が簡単に払えるのでお寺などで使われることが多いんです。配分は少ないですが、リップクリームや口紅などの化粧品にもロウが使われていて、全体ではろうそくと同じくらいの使用比率になっています。

(*)10トン以上ほど

内田さんのところでつくったハゼロウキャンドル

「素材の民主化」。誰もが素材に容易にアクセスできるように

甲斐かおり

それにしても、ハゼノキも和ろうそくも、採算が合わないために生産量が減ってきた経緯がありますよね。それを今から復興というのは、難しそうにも思いますが。

内田樹志

昔と同じつくり方や生産体制のままでは続かないことは、過去の人たちによって証明済みです。でも新しい生産方法や仕組みができたらどうだろうと。それを自分の手でやってみたくなって会社を辞めました。個人の力であれ企業の力であれ、仕組み次第で一般の人たちの力を借りることもできると思ったんです。
よく「丁寧な暮らし」のようなライフスタイルがもてはやされますが、着るもの、食べるもの、使うものも、自分たちが素材からちゃんと選べる状況にはないですよね。売られているものを信じて買っているだけというか。

甲斐かおり

確かに、「オーガニック」や「エシカル」といったことがよく謳われるようになりましたが、どこまできちんとトレーサビリティがあるかというと、ほとんどわからないですよね。店頭に並ぶものもオンラインなどでも、明記されているものばかりじゃないし。

内田樹志

天然素材だから無条件にいいとは決して思っていません。
私はネジや部品をつくる町工場に囲まれた下町で育ったので、人工的な原料を使ったとしても、彼らが神経を注いでミリ単位未満の、めちゃくちゃ精度の高いものづくりをしていることを知っています。だから何かをつくる時に、工芸品につかわれてきたような天然素材がいい素材かどうかは、ちゃんと調べてみないとわからない。

でも今はその選択肢すら土台にのらないことが多いので、原料の生産者や研究者、情報にアクセスしやすい状況をつくることが重要だなと。誰かが、ハゼノキという植物を何かに使えるかもしれないと思ったときに、ある程度実験して整備してあれば、その後のアクションが実現しやすくなるので。

甲斐かおり

改めて原料が見直され始めている時代ですよね。あらゆる分野のものを、何でつくるか。

昔よく使われていた原料というだけで思考停止していたら、新しい用途を見つける機会すら失ってしまうかもしれない。藍染の世界でも同じような話を聞きました。藍という植物は天然染料として優れているのに、スクモを使った伝統的な手法、天然灰汁発酵建てにこだわるあまり、量産型の衣服に藍の葉を使うという発想が日本では生まれてこないと。

内田樹志

そうなんです。だからあらゆる素材において、アクセスしやすいことがますます重要になっていくと思います。大袈裟にいうと“素材の民主化”と言えるかもしれません。この素材を使いたいと思った人が、誰でもアクセスできて選べる環境づくりが大事です。

甲斐かおり

“素材の民主化”、面白いですね。具体的には、ライブラリ化するような形になるんでしょうか?

内田樹志

まずは自分が今進めている栽培や製造の記録をとって、オープンに公開することを考えています。今わかっているだけでも、ハゼノキは染色にも使えるし、ワックスのような天然固形油としての可能性も大きい。また、樹木として見れば紅葉で真っ赤に染まるので、まとまって植えれば観光資源にもなりえます。
さらに栽培に協力してくれる人を増やしていきたい。使い道と量、その両輪が大事です。これに使える!となったとき、量が採れなければ原料として役に立ちません。ですからそのために、ロウにするハゼの実を収穫しやすいよう低木に育てるなど、栽培面での実験も進めています。

ハゼノキで染めたストール
ハゼノキの用途の広さと将来的な可能性(内田さんの資料より)

実用化に近づいている、ハゼノキの世界

甲斐かおり

内田さんのハゼノキの山を見せていただきましたが、広々した土地で見晴らしもよくて、自由にハゼノキが植えてありますね。樹の成長度合いとしては、まだ青年くらいでしょうか。車の通る道から近いのも収穫の上では利点ですよね。栽培面での課題としては、いまどんなことがありますか?

内田樹志

じつはハゼノキの実を蒸してロウにするのですが、7〜8メートルほどの高いところに実がなるんです。それをいわゆる「ちぎりこ」さんという方たちが梯子で登って収穫するのが従来のやり方。高いところに登らないといけない点が障壁なんですね。慣れた人じゃないと危険だし、子どもたちに体験してほしいと思ってもなかなか難しい。

甲斐かおり

漆と同じで、かぶれもありますものね。それは人によって体質があるので仕方ない面もあるでしょうけれど。

内田樹志

はい。そこで自分より少し背が高いくらいで樹の成長を止めても、実が豊富になるような栽培ができないかなと、トライを始めています。従来の品種でも果樹と同じくらいの感覚で収穫ができれば、ぐっと身近な樹木になります。これから農家以外の方にも副業的にハゼノキを育てていただけたらいいなと思っているので。

甲斐かおり

従来の栽培方法が効率化されれば、可能性がさらに広がりそうですね。いま、内田さんが栽培を始めて3年目ですよね。もう実が採れる木もあるのでしょうか?

内田樹志

うちの山の樹はまだですが、隣町の南大隅町では昔からハゼが育てられていたので、ハゼノキが結構残っています。実を採っていいよと言ってくれる人もかなりいるんです。本数にすると500本はありそうなので、今年からは収穫を始めようとしています。合わせると2〜3トンのロウにはなるんじゃないかと見通しています。

甲斐かおり

それでどれくらいの金額になるものなんですか?

内田樹志

実だけを納めると100万円くらいですかね。ロウにして納品すれば、値段が10倍以上になります。まだ量が多くないので、うちでもハゼノキの実を圧搾あっさくする小さな機械を買って、当面は自社でハゼノキや木蝋を使った新しい製品を作っていきたいと考えています。そうすると、来年からは少しずつ換金できる見込みです。将来的には半分実で、半分はロウで卸せたらいいなと思っています。

甲斐かおり

製ロウ会社で慢性的に素材が足りない状況だとすると、ロウや実を卸すのは喜ばれますよね。

内田樹志

そうですね。需要はあるのに、原料が足りないので、収穫した実はその年に100%使い切ってしまっています。化粧品向けに、植物性の個体化に使えるロウを探していた会社があって、そういった新しい会社とも協力していく予定です。白蝋(木蝋)が、樹木を含むすべてにおいて国内生産できる点が貴重なんです。原産地証明の取得や、海外輸出も視野に入れています。

内田樹志さん。自らこの山にハゼノキを植えている
ハゼノキの枝を砕いたもの。木の枝は黄色

ハゼノキを新しい地域文化にしていくために

甲斐かおり

もともと鹿児島の錦江町はハゼノキが育てられていた場所なのですね。やはり西日本が産地なんでしょうか。

内田樹志

はい、じつは鹿児島のこの辺りが、ハゼノキの発祥の地と言われています。琉球から流れついたとか、中国から入ってきたなど諸説あるんですが、最初に日本に入ってきた土地という意味では間違いなさそうです。それが自分がこの場所を選んだ理由としては大きいです。

もう一つはハゼノキの栽培を応援してくれる林業の会社と出会ったこと。その会社が紹介してくれたおかげで山を借りることもできていますし、資金面でもサポートをいただいています。

甲斐かおり

ハゼノキを換金作物としてだけでなく、地域の文化として発展させていくことも考えられていますか。

内田樹志

熊本県の水俣などは、地域としてハゼノキを大事にしてきた文化があります。ただ鹿児島では、昔は米やサツマイモに代わる税金として納める作物だったので、農民は半ば強制的にハゼノキを植えさせられたような歴史があって、いい印象をもっていない人も多いんです。そこが難しいところだなと思っています。

甲斐かおり

そうなんですね。徳島県の藍も、昔は貧しい農家ばかりが藍栽培を行っていて、藍の品種改良や、機械化がほとんどされないまま今に至って、キツい仕事なのだと聞きました。藍染した製品や染色作家には注目が集まるけれど、藍の葉を育てる栽培面にはフォーカスされないので、原料が足りなくなっているという話でした。結局、原料の栽培の体制がしっかりしていなければ、その上にのっかる文化も存続の危機に陥るし、足元が揺らぎますよね。

内田樹志

今回の取り組みで、鹿児島でのハゼノキへのネガティブなイメージをポジティブなものに変えられなければ、この土地でハゼノキを扱う意味はないとさえ思うんです。

これから僕だけじゃなくていろんな人が、空いた土地に副業的にハゼを植えて換金できる仕組みをつくろうとしているんですが、昔の厳しかった副業としてではなく、ハゼノキを育てる人たちがより幸せになれるような循環を生み出していけたらいいなと思っています。

そのためにも、ハゼノキでつくったクレヨンを子どもたちにプレゼントしたり、絵本をつくってハゼノキの魅力や歴史、役割を伝えるなど、この植物が地域の誇りになるような施策も行っていきたいと思っています。

甲斐かおり

この土地がハゼノキに向く気候であることは、明白なわけですものね。その利点をどう文化に結びつけていくか。新しい試みだし、ものづくりの持続可能性を考えてもやり甲斐のある仕事だなと思えます。

内田樹志

人間が自由になる三大要素に「衣食住」をまかなえる手段が手元にあることだ、という言葉があります。食べもの、着るもの、住むところがあれば何とか生きていけますよね。

灯りという意味では、ハゼノキも生活に必要な一つ。そうしたものすべてに言えることですが、土地はこれだけ空いているので、素材にさえアクセスできれば、いざ必要な時にはそれを使って生きていける。素材に着目することは、大きな目でみれば、自由に生きられる権利を手に入れることにもつながることだと、僕は思っています。

大隅半島から見える桜島
]]>
創業100年染の老舗が型紙をデジタル化|東京 落合 https://craftweek.jp/column/72605 Sun, 10 Mar 2024 02:44:03 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=72605 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

大都市、新宿にほど近い中井・落合エリアが、江戸時代より前から染の産地であることをご存知だろうか。数は減ったとはいえ、今も染屋や織物屋、しわ伸ばしの加工をする湯のし屋、仕立て屋が点在している。

その一つ「染の里おちあい」の代表、高市洋子さんは、まったくの異業種から染の世界に後継者として入った女性である。かつては大手人材派遣の会社で活躍する会社員だったが、結婚して会社を辞め、落合の「染の小道」というイベントに関わったのがきっかけで染の老舗工房「二葉苑」の経営を引き継ぐことになる。

その高市さんは昨年、型紙のデジタル化を進めるプロジェクトを立ち上げたという。話を聞くために、現地を訪れた。

染の里おちあいで染めた反物。撮影時は夏だったので夏らしい色柄

「江戸庶民が芸術の域にまで押し上げた」伝統の染

江戸時代には、染色の技法が飛躍的に発展した。

糊を塗って色が染まらない部分をつくる「糊防ぼうせん」の技法によって、細かい柄を表現できるようになったのだ。この糊を落とすために川の水を必要とした。もとは神田川の下流で行われていた仕事が、より上流へ移り、現在の落合付近に定着したらしい。

中井駅から下落合駅の間を流れる妙正寺川沿いで、毎年染のイベント「染の小道」が行われる

幕府が、武士にも町人にも贅沢を禁じて衣裳に使える色を制限すると、職人は「茶色」や「ねずみ色」を駆使して、唐茶からちゃ柳煤竹やなぎすすたけ藍鼠あいねず銀鼠ぎんねず…といった多彩な色と、それを生かした柄を生み出した。遠くから見ると無地に見えるが、近くに寄ると繊細な文様が見える「江戸小紋」はこうして生まれた。その後、中近東にルーツをもちエキゾチックなデザインの「江戸更紗」が加わる。

こまかく美しい絵柄の反物を量産できるようになった背景には、型紙かたがみの存在がある。とくに伊勢で彫られた型紙は品質がよく、全国に流通した。

「染の里おちあい」は、大正9年に「二葉屋」として創業。型紙をつかった小紋、更紗を得意とする、技術力の高い工房として名を馳せた。

「江戸庶民が芸術の域にまで押し上げた伝統の染色技術が江戸小紋、江戸更紗である」とは、二葉屋三代目小林文次郎の言葉

いまも工房には明治から大正、昭和初期の型紙が何千枚と残っている。その多くは、伊勢から仕入れたものだ。

「今みても、美しい柄が多くて驚きます。一体これはどう彫ったのかと思うほど細やかな柄がたくさんあるんです。古い型紙を見て職人が『これを使ってみたい』と言うのですが、だめ!この紙いま使ったらボロボロになるよって。型紙がなくなったら、もう再現できないので」(高市さん)

工房のあちこちに、古い型紙が積まれていた

「一度なくしてしまったら、取り戻せない」型紙の貴重さ

工房には古い型紙が積み上げられていて、触れれば崩れ散ってしまいそうなものもある。和紙に柿渋を塗って丈夫にしてあるとはいえ、型紙は何度も使ったり、時間が経ったりすれば劣化し、壊れれば二度と使えない。

染め上がった反物から色柄を再現することはできるのではと思っていたが、話はそれほど単純ではなかった。

一枚の紙に図案を彫るだけでなく、色分けするパーツごとに型紙が必要で、何枚もの型紙を使って色を重ねていく。いわば型紙は色の設計図でもあるのである。

着物にしたとき美しく見えるよう、図案師が柄を考え、色の染め分けを考える。その設計図に従って型紙を彫るのが彫り師、染めるのが染師。

複雑な柄になるほど、染め上がった反物からたどって型紙を再現するのは難しく、型紙がだめになれば、設計そのものが永遠に失われてしまうのである。

糊置きのようす。「江戸小紋」は、糊を使って染まらない部分をつくる防染(ぼうせん)技法。白地の布に型紙を置いて、防染用の糊を上から塗り、そのあと全体の地色を染めて糊を洗い落とすと、糊を塗ったところにだけ色が入らず、白色の柄として残る。(写真提供:染の里おちあい)
「江戸更紗」には、何枚もの型紙を使う。もともと更紗はインドで発祥したといわれ、人や鳥、草花などを図案化した異国情緒を漂わせる模様が特徴

「型紙1枚、1万5000円ほどするので、型紙を何枚も外注するのは難しいんです。簡単な柄であれば、自社で型紙から彫ります。

でもやはり、難易度の高い細かい柄は、伊勢の職人さんでないと彫れないのです」

染の里おちあいに残っている、小紋柄の型紙
小紋柄の型紙。線1本1本が手書きで手彫り

伊勢でも昨今では職人が減り、伊勢型紙協同組合の組合員は13軒になっているという。

そこで高市さんたちは、工房に残っている型紙を、デジタルアーカイブするプロジェクトを始めた。

2023年4〜5月、クラウドファンディングを実施。結果、133人の支援者から142万2千円の寄付が集まった。まずは5000枚の型紙のうち、状態や柄から優先順位の高い2000枚をスキャンして、データ化しアーカイブとして保存する作業を進めている(クラウドファンディングの後、工房に残る型紙は全部で5万枚ほどあることがわかった)。

先人によって考え抜かれた、一度失われれば二度と取り返せない美しい柄や模様を、従来とは違う形で再現できるようにする試みだ。

更紗の模様

「着物の柄を考える上で大事なのは、一反の布を切り返して前後ろになっても、つまり上から見ても下から見ても同じパターンが違和感なくリピートして美しく見えることです。その制限の中で、日本の女性が美しく見えるように考え尽くされた、流線美の究極が着物の柄だと思うんです」

市井の名もなき職人が、日本の女性がどうすれば美しく見えるかを考え抜いた結晶が型紙であり、着物の柄であるということだ。

使用後の型紙が干してある様子

染のまちが賑わう「染の小道」、2日間で来場者1万2000人 

中井・落合では、年に一度「染の小道」というイベントが開催されている。2〜3月の2〜3日間だけ、妙正寺川に色とりどりの反物が鯉のぼりのようにたなびき、商店街の店先には染の暖簾のれんがかかる。この日だけ、まちが華やかに様変わりする。

数年前に一度、取材でこのイベントを訪れた時、川沿いの遊歩道は、訪れた人でいっぱいだった。

毎年恒例になったイベント「染の小道」。「川のギャラリー」では妙正寺川に色とりどりの反物がたなびく 写真提供:染の里おちあい

地元の染織業者を中心に細々と行われてきた「染の小道」を、2011年に大きく飛躍させたメンバーの一人が、高市さんだった。主婦として「おちあいさんぽ」という落合界隈のフリーペーパーを発行しながら、着物好きが高じてこのイベントを手伝っていた。

当時、高市さんがこう話していたのを覚えている。

「染の暖簾が商店街のお店にかかるイメージが、ぱぁっと頭に浮かんで。面白い、絶対成功するだろうなと。そしたらどうしても関わりたくなってしまって(笑)」

高市さんたちが立てた目標は、暖簾をかけてくれる店50店舗、川に展示する反物60反、来場者3000人だった。それが2年目の2012年には協力店舗は110店、川にたなびく反物は150〜200反と増え、来場者も1万2000人と、目標を大きく上回った。

現在に至るまでこのイベントは続いていて、2019年には過去最高の1万7000人を記録。コロナ禍の時期は来訪できる数を6000人ほどに制限したが、2024年時点で1万人弱ほどまで戻ってきている。

染の小道で、大きく活躍したのが高市さんたちの力だった。その手腕が認められたのだろう。高市さんは、大正時代から続く型染屋の「二葉苑」(現・「染の里おちあい」)のギャラリーで、着物の販売の仕事を手伝うことになる。

2017年には店の営業一切を引き受け、2020年には当時の代表から全事業を引き継ぐことになった。伝統工芸の世界では、珍しい事業継承のあり方ではないかと思う。

「染の里おちあい」の現代表、高市洋子さん。

事業の多角化。「やれることは何でもやろう」

引き継いですぐに世の中を襲ったのが新型コロナウィルスだった。多くのイベントや催事は中止になり、着物を着る機会が激減。ギャラリーの客足も遠のいた。

「本当に厳しかったですよ、もう思い出したくないくらい。続けていけるよう、やれることは何でもやろうと職人さん3人とトライしました」

伝統の枠に縛られることなく、それまでにはなかったさまざまな事業を短期間のうちに始めた。

新規事業で、いま売上の柱になっているのが染の教室である。

「うちの強みは職人の本物の技術。お客さんに染色体験をしてもらうのが、一番染が伝わることだろうと考えました。いま年2回のコースに80人ほど生徒さんがいらっしゃるので、うちにとっては大きな柱になっています」

教室では、生徒さん一人一人がそれぞれ色の設計をすることができる

通信講座も始めたほか、単発の体験教室も数多く開催している。加えて、着物だけでなく財布やバッグなどオリジナル商品の染め、ガマ口やバッグといったライフグッズの製造販売卸も行う。

「着物は手染めですが、ライフグッズなどの小物は、手で染めたものをスキャンしてプリンターを使う方法も併用しないと、この先生き残っていけない。デジタルトランスフォーメーションなんてカッコよくいわれますが、つまりは工業化ですよ。でも生き残っていくためには大事です」

小紋を生かしたランプシェード

この時期を乗り越えることができたのは、次々に手を打てる高市さんだったからではないかと思う。

職人が「自分たちがつくっているものは何か」を意識するようになったことも大きな変化だった。

「職人さんたちは、黙っていると“布”を染めている感覚になりがちです。でも私たちがつくっているのは、あくまで着物。最終形を意識できるかどうかは大きい。私には染める技術はないですが、できるだけお客さんの声を伝えるようにしています。売場も工房のすぐ横ですし」

たとえば職人さんも、自分が染めた柄が売れ残っていれば、なぜだろうと考える。何が今の時代のお客さんに好まれ、選ばれるのか。つくり手も買い手の目をもつことが、売れる商品をつくることにつながるのだという。

なぜ一般社団法人か? 「テーマは染の総合博物館」

高市さんが事業を継承した際、工房の名前を「一般社団法人」にしたのには理由があった。染の文化を維持するためには、自社の発展だけでなく、地域に開かれたオープンな企業になることが不可欠だと思ったからだ。

「周りの染屋さんと連携して、うちの会社だけでなく、地域全体で染の業界を盛り上げていきたいという気持がありました。

これまで切磋琢磨してきたライバル同士なのでなかなかすぐには難しいですが、地元に愛される企業になろうと、地域貢献を色々始めています」

小学校の総合授業では、藍の葉を栽培するところから染までの体験を、子どもたちと一緒に行っている。公開授業にもされ話題となった。

高市さん自ら、教室にも立つ

また大学生のインターンシップを受け入れ、「染の小道」を共につくりあげる体験をしてもらう。それも地域貢献の一つだという。

「将来のビジョンは、“染の総合博物館”。染に関することなら何でもわかる場所を目指します。もともと染は、産地だけでなく、近くに染屋があって、身近に染めてもらったり、染め直してもらったりという習慣があったんです。

ゆくゆくは、「染の里・富士」や「染の里・高知」など、各地に染の里ができたら面白い。昔とは役割が違っても、染について相談できる場所が近くにある世界になったらいいなと思っています」

道具まで美しい

取材協力

染の里 おちあい

〒161-0034 東京都新宿区上落合2-3-6
Tel 03-3368-8133 
【アクセス】都営大江戸線・西武新宿線 中井駅から徒歩4分
営業日:火曜日~日曜日 11:00~17:00
休館日:月曜日 
https://www.ochiai-san.com

]]>
土地の力を宿した、やきもの 朴禾|広島 安芸高田 https://craftweek.jp/column/70750 Sat, 10 Feb 2024 02:54:25 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=70750 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

   

「朴禾(ぼくか)」の佐々木りつ子さん作の植木鉢
   

まるでパンを焼く小麦粉をこねるように、佐々木りつ子さんはやきものの土をこねる。慣れた手つきで黄土色の塊をリズミカルに押すと、わしゃっ、わしゃっ、わしゃっと湿った土の音が響いた。
器をつくる仕事は、日々畑に出て、自分や家族が食べる穀物や野菜を育てるなど、佐々木さんにとっては生活のための仕事の一環にあたる。育てた小麦でパンを焼き、味噌などの発酵食品もつくる。陶芸の作業場も自宅の一角にあり、生活の一部に器づくりがあるようだった。

一輪挿し

暮らしの一部にある陶芸

広島県と島根県の間に横たわる中国山地のふもと。安芸あき高田市高宮町川根という小さな集落に佐々木さんの家はある。田畑仕事をしながら、「朴禾ぼくか」の屋号で、マグカップやお皿などの器、花瓶、植木鉢などをつくり、展示会やインターネットで販売する仕事をしている。

ここで暮らすようになって、生活に時間の比重をおくようになった。

「以前は今よりずっと陶芸の仕事に時間も労力もかけていました。今の10倍くらいは。数をつくればそのぶん上達するし、そのスタイルをずっと続ける作家さんもたくさんいると思います。でも私は、展示会前には没頭しすぎて食べることがおろそかになったり、身体を壊したりして。そういうやり方は自分には合っていないと思うようになったんです」

作陶家の佐々木りつ子さん。陶芸工房「朴禾(ぼくか)」を営む
   

佐々木さんのつくる食器は、土の味わいが生かされた落ち着いた色味で、素朴で飾り気がないが、形はすっきりと洗練されている。あたたかみがあるやさしい印象の中に、美しさが同居している。そのバランスがちょうどよかった。

瀬戸の製陶所や窯業訓練校で学び、焼きものの基礎的な知識を得て、一時期は体を壊すほど数をこなし、つくりこんできた。そうした経験があって、今の精度の高さがあるに違いない。

自宅から少し離れた場所にある工房はギャラリーも兼ねている
約10年前に制作した湯呑み
   

「その頃はこういうものがみんな好きだろうと思うもの、つまり売れそうだなというものをたくさんつくっていました。自分が嫌なものというわけではないですが、自分より他者の目を意識していたというか」

精緻な形をしている食器がある一方で、佐々木さんの最近の代表作でもある植木鉢は、より自由で、丸っこくぽてっとした形をした平たい鉢や、伸びやかに上部の広がるもの、ひょうたん型などさまざまで、どれも土偶のようなプリミティブさを感じさせる。

土地の土で制作した花瓶
土地の土で制作した植木鉢と花瓶
   

「以前は植木鉢なんて、という感覚がどうしても陶芸家にはあったと思うんです。最近は名だたる作家さんも植木鉢を作られていてずいぶん状況が変わりましたが。もともと私は植物が好きでした。でも陶芸を始めた頃は、なかなかいいなと思う植木鉢がなかったんです。

当時は作家さんで植木鉢を作っている方はあまりいらっしゃらなくて。食器に比べると、穴を開けた鉢では価格が低かった。生業として植木鉢をつくるのは難しいし需要もないのかなと自分用の鉢をつくる程度だったんですが、その頃にくさむらさんとの出会いがありました」

「叢 – Qusamura」は、広島を拠点にサボテンなどの多肉植物と鉢を組み合わせて販売するギャラリー兼ショップ。オーナーの小田康平さんは、佐々木さんの鉢を使いたいと言ってくれた。念願の植木鉢作りが仕事になるようになった。この出会いは、大きな転機になった。

佐々木さんの作品の一つ、植木鉢とサボテン

「地に足のついた生き方」を求めて

以前よりも制作にあてる時間は減ったが、いま“こういうものがつくりたい”と湧き出る気持に忠実に、陶芸に向き合うことができている。

たくさんつくってたくさん売る売れっ子作家になるより、地に足をつけた暮らしから生まれる、出自のしっかりした器をつくりたい。そう方向性が変わった過程には、何があったのだろう。

学生時代はスポーツに打ち込んだ。その延長で高校や大学に進学したが、行き詰まりを感じ、一人でできる“ものづくり”を志すようになる。瀬戸の製陶所や窯業訓練校で学び、長野で陶芸教室の講師を経験した後、生まれ育った高宮町に戻ってきた。

そこで「自分の暮らしを自分の手で整える」生き方に目覚めていく。

作陶設備のある家をもつ知人の元に通っていた時のこと。

「その方がすごくクリエイティブで、毎日のようにDIYで家のあれこれをつくっていたんです。朝から「今日はごみ箱をつくる」ってインパクトドライバーを使っておしゃれなごみ箱をつくってみたり、鶏小屋がカラフルだったり。そういうのを見ていたら、私も自分の手で暮らしをちゃんとしてみたくなって」

その後、佐々木さんはなんとセルフビルドで、工房兼住まいを友人と2人で建ててしまう。 6年かかったが、まったくの素人だと考えると、その根気たるやすごい。

セルフビルドで建てた、自宅から車で10分ほどの場所にある工房兼ギャラリー「朴禾(ぼくか)」
現在は作品を展示するギャラリーや打合せの場所として使用している
   

2階に暮らしながら家庭菜園のような畑づくりをして、馬も飼い始めた。

それでもまだ、“地に足のついた感じ”が得られなかったという。

「どこまでいってもママゴトの延長にしか感じられなくて。どうしたらもっと地に足がつくのかとずっと考えていました。食べることや土にふれることをもっとしたいなって。それが実現したのは、結婚して今の家に来てからです」

もともと夫の親戚の住居だった家には、何世代にもわたる生活の痕跡が色濃く残っていた。家の前の川の手前には自家の田んぼも畑もあり、数々の生活道具、農機具で蔵はあふれ、保存食を蓄えておくための貯蔵庫もあった。薪割りや畑仕事、パンの焼き方。生きていくための仕事を一つずつ覚えて実行できるようになるたびに、それまですっぽり空いていた心の隙間が、埋まっていく感覚を覚えた。

現在佐々木さんが暮らす、川根の自宅
さまざまな生活道具が残っていて現役
大豆も育て、採種して翌年再び蒔く

この土地の「土」をつかう

今は林業家のご主人が田んぼの世話をし、佐々木さんは畑を担当。夏野菜や冬野菜、小麦も大豆も栽培している。

種をまいて大地で育てた小麦や大豆が、食べることで自分の体の一部になる。自然の循環のなかに自分もあると感じ、そのサイクルに身を置くことがたまらなく「しっくり」くるという。

自宅前には江の川が流れている。その手前にある畑
   

「そんな生活をおくっていると、やきものの土も近隣で採れたらいいなと思うようになったんです」

ある時、近所の畑が工事で大きく掘り起こされ、地面から粘土質の土が見えていた。これは使えるかもしれないと付近をウロウロしたあげく、交渉して持ち帰った。

早速こねてみて驚いた。

「石やら根っこやら混じっているのだけど、手からぶわぁって土のエネルギーが伝わってきて、素材が生きている感じがしたんです。土の力がぐいぐい伝わってくるようで、練るのが楽しくてどんどんこねました」

自宅の近くで採れた土をこねる
   

繊細さを要する食器に使うのは難しそうだったが、植木鉢などには使えると思った。

今の時代、お金を出せば、いくらでもいい土が買える。インターネットで購入して届く粘土は陶芸用に調整された素材なので使いやすいし、夾雑物も入っていない。

「でも四角いビニール袋に入って届く粘土を練っても、心に響くものがなくて」

それ以後、近隣で土が見つかると取りに行き、植木鉢をつくることをくりかえした。佐々木さんが陶芸用の土を求めていると知った近隣の人たちが、土が取れそうな現場を見かけると連絡をくれるようになったという。

取材で訪れた日も、近くで採れたばかりという、鮮やかな黄色の土を見せてくれた。

「同じ場所でも、土によって状態がまったく違います。細かな石でザラザラしているのもあれば、石がまったく入ってなくて、細かくてなめらかで、形も気持よく整って…という土もあるんです。ほんとに色々」

鉄分の多い黄土色の土
   

やきものにとって土はかなめだ。産地といわれる地域では、どこも陶芸に向く土や石が採れる。陶芸に適した土があれば、質のいい器ができる。質のいい器とは、「割れにくい」「汚れにくい」「量産できる」「素地に鉄分が少ない」などの条件を満たす器だと教えてくれた人がいた。

ところがいわゆる産地でない場所でも、歴史的にみれば器づくりは日本各地で行われてきた。今ほど流通の発達していない時代、かならずしもいい土が手に入らなかった頃、人びとは地元で採れる土の短所を補うように技術力でカバーし、工夫して器をつくってきたのである。

佐々木さんは、今まで花瓶や植木鉢にしか使っていなかった地元の土を、これからは食器にも使ってみたいと考えている。

「要はどれだけ手をかけられるか、なんです。採ってきた土がガチガチでも柔らかくても、土を一度しっかりと乾燥させてから砕き、水に浸して石や根っこなどの不純物をふるいし、水分を抜いて成形しやすい柔らかさに調整して使います。粘土として使うのは無理でも、化粧土として塗ったりかけたり釉薬の原料として使うこともできる。作業工程が多くなるのですべては無理ですが、それほど量をつくるわけではないのでできる範囲で」

(左から)植木鉢、一輪挿し、花瓶。中央の一輪挿しの上半分は釉薬の色。

自分のコントロールの及ばない域へ

「若い頃は自分の色にしたいとか、自分がイメージしたものにいかに近づけられるかを一番に考えていました。買った材料は、安定した状態に仕上がるように調整されているので、その通りに調合すれば毎回、同じ色、質感が出て、同じものがたくさん安定してつくれる。劇薬指定で手袋とマスク必須なんて材料も、めざす質感に仕上げるために使っていました」

自分で採ってきた土や灰では、出来上がりが安定しない。

「どうしようもなく思い通りにいかないこともあります。釉薬も、自宅の薪ストーブの灰を使ってつくるのですが、いろいろな木を薪にするので常に一期一会。毎回状態が違うので、毎回が違う作業になる。でもそれが楽しみでもあるんです」

自宅の薪ストーブから出た雑木を燃やした灰。これを釉薬に使う
   

畑や田んぼの中で暮らすようになって、自分がつくりたい形ありきで強制的に調整する作り方に違和感を感じるようになった。

「いい悪いじゃなくて、どっちが気持ちいいか。まわっていく感じがするか、ですかね。目の前にある、縁のあったものを生かして形にするほうが、自然にすべてがまわっていく感じで、無理がない。自然なんじゃないかなと」

それが、佐々木さんのいう“しっくりくる”ということなのだろう。

かつて日本人の間で「自然」や「文化」といった言葉は使われなかったという。どちらも日常生活のなかに溶け込むようにあたりまえに存在し、別ものとして名前をつける必要がなかったからだ。佐々木さんのものづくりも、生きること、暮らすことと一体化しているのだろう。

春になって農業が忙しくなると田畑と工房を行き来する日々。佐々木さんは土まみれになりながら「田んぼの泥だか、陶芸の土だかわからなくなる」と笑う。

古くから続く人の営みとしてのものづくりに、一周まわって新しさを感じる。

何より生活を担う手から生まれる道具の、安心感を思った。

佐々木さん。愛馬のミニチュアホース「じょじょ」と一緒に
]]>
神秘の「紙布」の世界 島根|川本 https://craftweek.jp/column/69846 Wed, 10 Jan 2024 02:22:17 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=69846

地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

   

   

しんとした小さな工房で、山内ゆうさんは和紙と向き合う。冬は屋内にいても息が白くなるほどの冷たさだ。
しゅっしゅっと霧吹きで水をかけ、ほどよく湿らせた紙の短冊を、石の上でしごいて糸にしていく。ひと月の大半をかけて紙をり糸にしたものを、布にする。彼女のそうした静かなものづくりを見ていると、仙人のようにも思えてくる。
山内ゆうさんは、和紙から紙糸をつくり、その糸で紙布を織る作家。 紙布とはどんなものなのか。山内さんはなぜ、山奥の工房で一人紙布を織っているのだろう。島根県の山あいにある工房を訪ねた。

紙布との出会い

島根県邑智郡川本町。前回紹介した石州和紙の産地、三隅町から車で1時間ほどの場所にその工房はある。 山内さんは4年前に川本町へ移住してきた。地域おこし協力隊として3年間の準備期間を経て工房など制作環境を整え、織物作家としての活動を始める。

私が山内さんに出会ったのは、2年前、彼女が協力隊活動の 3年目を迎える年だった。将来に不安はないかと問う私に、彼女は穏やかな口調で固い決意を話してくれた。覚悟が違う。その印象が強く残った。

「やれるかやれないかではなくて、もうやると決めたので。私が形にしてみないことには、どういうものをつくれるのか誰もわからないですから、たくさんつくって、こういうことができますと見せていかなければと思っています」

紙布織家の山内ゆうさん
   

紙布との出会いは、23歳のときだった。神奈川県横浜市の出身。子どもの頃から布が好きで、短大の芸術科を卒業後は、和裁の学校や、志村ふくみさんの染織学校で絹織物を学ぶ。学校へ行く前に、京都で出会ったのが紙布だった。

「ワークショップで偶然、カナダで紙布織をされている、軽野裕子さんという方にお会いしたんです。軽野さんの糸を見た時に衝撃を受けて。和紙からつくった糸とは思えなかった。それほど細くて美しい糸でした」

ただただ、その糸を美しいと思った。この出会いがその後、山内さんを紙布へと向かわせた。

地元の石州和紙を使って

川本に住み始めて知ったのが、近隣で生産されている石州和紙だった。日本でもっとも強いと言われる和紙は、紙布にするのに最適だった。

「この地域の紙を使いたいなと思って、石州和紙の制作現場を訪ねました。こうぞ(和紙の原料となる植物)の繊維は通常0.8cmほどですが、石州和紙で使われるものは1cmと長く、表皮あまかわと呼ばれる部分を残したまま紙にするので強度があって、紙布に向いているんです」

「石州和紙から紙糸をつくり、その糸で紙布を織る」 いつしか、それが山内さんの作品の基本になる。

西田和紙工房の西田さんは、山内さんが紙布をつくろうとしていることを知って「頑張りな」「この和紙でよければ、つくってみて」と背中を押してくれた一人だった。紙布にする材は、西田和紙工房にいつも在庫がストックしてある定番の紙を仕入れる。

    

紙布とは何か?

紙布とは、和紙を細くカットし、こより状に撚って糸にしたもので織る布のことを言う。

今でこそ珍しいが、江戸時代には身近にある和紙で布ができるというので、多くが自家製でつくられた。和紙が身近にある産地ではとくに、“土着のものづくり”といえるものだった。

まだ日本で木綿もめんが普及していなかった時代には、麻をはじめ、さまざまな植物が糸や布の原料として用いられた。和紙の原料である楮 もその一つで、紙布とは別に、楮の繊維をそのまま布にした「木綿ゆう」と呼ばれる布も存在する。だがゴワゴワとしていて肌当たりが紙布ほど柔らかくない。

一度繊維を紙にしてそれを再び糸にする紙布は、二度手間のようでもあるが、現代の木綿もめん と風合いが似てあたたかく、肌触りもよく、軽くて丈夫であるため、夏の衣料として重宝された。
実際、山内さんに見せてもらった紙布の風合いは柔らかく、木綿よりもハリがあった。

紙布はあくまで家庭で織って自家消費するものであって、市場に出回るものではなかったが、宮城県の白石紙布だけは、武士が着る品格のある布として献上品に用いられた。木綿の栽培に不適な寒冷地では、自家製できる、大切な防寒の衣料でもあったのだ。

「糸をつくるのが一番大変」

和紙づくりも体力と根気のいる大変な仕事だけれど、紙布づくりはさらに細やかな仕事の続く、根気のいる仕事だ。

ひと月半をかけて、帯一本がようやく仕上がる。帯一本を織るために、畳3分の1ほどの大きさの和紙を50枚近く使う。和紙1枚分を糸にするのに6時間かかるため、50枚を糸にするには300時間がかかる。昼夜問わず作業を続けても約1ヶ月だ。

和紙を丁寧に折りたたみ、上下を残したまま細く切り込みを入れる
紙の束を霧吹きで湿らせながらブロックの上で転がす。糸のようになってきたところで、左右を互い違いにちぎり、一本の長い糸に(写真提供:山内さん)
糸車で撚りをかけて丈夫にし、木枠に巻いたものをそのまま蒸す
    

ひと月かけて糸にしたものを、織って布にするには2〜3日から2週間ほど。つまり、紙布をつくる工程の大半は糸づくりになる。

「糸をつくる工程が一番大変で。そこまで終わったら完成間近です。織るのは、模様にもよるんですけど、2〜3日もあればできます」

そうは言っても、織りの作業もそれはそれで大変で、模様を設計して機織り機に経糸たていとを張り、緯糸よこいとをくぐらせてトントンとおさで寄せるという作業を繰り返す。

   

地味な作業を繰り返すこの仕事を、山内さんはこう表現した。

「料理にたとえるとひたすら美味しい白めしを炊くような仕事です(笑)。中華やイタリアン、スイーツなど目新しいものをつくるのとは違って、ただ地道に白めしを炊く。それもじんわり美味しい白めしを目指すような」

どこまで、その素材が成りたい形に近づけられるか

織り上がった紙布を何枚か見せてもらった。未晒みざらしの紙を使った、うっすら経糸と緯糸が感じられる美しい生成りの反物。もう一枚は、ランダムに黄色や藍色が入った、みどりかすりのように見える織物。

諸紙布天蚕交織帯地《》(もろしふてんさんこうしょくおびじ《おぼろ》 )。2020年の島根県総合美術展で金賞を受賞
諸紙布経緯絣帯地木立》(もろしふたてよこがすりおびじ《こだち》)
   

けして派手ではないのに、素材から上品で涼しげな感じが伝わってくる。麻のようでもある。

生成りの帯《朧》は、2020年の島根県総合美術展で金賞を受賞。さらに翌年、こちらは木綿だが、「木綿緯絣帯地《南国花鳥図》」が全国伝統的工芸品公募展全国商工会連合会会長賞を受賞した。 県展では、2021年2022年とも連続して、紙布の帯が銀賞金賞を受賞している。

左が《朧》。中央は《木立》。右が2022年に県展で金賞を受賞した「諸紙布綴織帯地一投》(もろしふつづれおりおびじ《ひとなげ》」。波とともに小石が水底で揺れる渚をイメージし、太めのこよりを織り入れて、生成り一色の地に陰影ある文様を表現している
   

数々の受賞に関して「おめでとうございます」と山内さんに告げると、「ありがとうございます。でもまだまだで…」と濁すような言葉が返ってきた。

「ありがたいことではあるのですが、自分としてはまだ目指す域に達していない、作品に納得できていない気持ちも強くあって。

糸から自分でつくるから、愛おしくて美しいなという気持ちはもちろんあります。でも、この和紙がなりたい形にはまだなっていないんじゃないかって」

圧倒的に自分の中にデータが足りないのだという。引き出しが増えれば、「こうしたらこう見えるという予測が立てられて、さまざまな組み合わせができるようになると思う」と話す。

   

紙布を織る上でめざすところがあるのですかと聞いてみた。 しばらく考えて、山内さんは「自分の意思や自我が先行しすぎていないもの」と言った。

「自分がコントロールするのではなくて、あるべきものがあるところにある。その素材がなりたい形になっていると感じられるようなもの。すべてにおいて無理がないというか」

    

渡邊さんという織の作家さんの展示会へ行った時にはボロボロ泣いてしまったのだという。

「染めた糸に命が宿っていると感じたんです。自分の糸はまだそうなっていない。

楮という植物の命、草木染めの植物の命、そして私自身の命も宿るような。そういうものがいつかできたらいいなと思います。そういう域に辿り着けたら」

手の内の紙に向き合い、寄り添うように糸を撚り、織り続ける。過去から継がれてきた土着のものづくりである「紙布」に、山内さんの手で新たな命が吹き込まれる。

取材協力

紙布織山内 https://shifuori.com/

   
西田和紙と山内さんの紙布のコラボレーションでできた名刺入れ

こちら(https://shifuori.jp/)より購入可

]]>
「石州和紙」の産地へ|島根 浜田 https://craftweek.jp/column/70194 Sun, 10 Dec 2023 04:10:21 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=70194 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

   

   

ぱしゃっ、ぱしゃっ、ぱしゃっ。ざざざっ…

静かな工房に、水の音が響く。西田和紙工房の西田誠吉さんが紙をくための漉き舟に向かい、ゆっくりを揺らしている。水をふるい落とし簀を引き上げ、紙床へ下ろすと、まだたっぷり水気を含んだ和紙の原型が、一枚つみかさねられる。

ここは島根県の西部、浜田市三隅町。1300年前から続く石州和紙の産地だ。

江戸時代には今より山あいの方で紙がつくられた。藩が紙づくりを奨励し、米に代わる年貢にもなったため、農業の傍ら、副業として和紙を漉く家が多かったのだ。ほかにこれといった産物のない土地で、紙は換金する品として重用された。明治期には、紙をつくる家が6377戸あったと記録に残っている。

現在は、かつて紙問屋のあった和紙の集積地「古市場」という海に近い場所に4軒の工房が残っていて、石州和紙の文化を支えている。

日本一強い和紙

今私たちがあたりまえに使っている紙は、植物の繊維からつくられる。その点は洋紙も和紙も同じだ。洋紙は紙の表面をなめらかにするために、木を丸ごとすり潰したり、切り刻んで繊維の短いパルプ材にする。和紙の場合は、こうぞ三椏みつまたといった木の皮の内側の柔らかい白皮の繊維を用いてつくる。

楮が育ちやすい土地柄だったこともあるが、石州では、ほかの和紙の産地に比べて楮の繊維が10ミリと長い。また「甘皮」と呼ばれる、表皮と白皮の間の繊維部分も残したまま紙にするため、強度のある和紙ができる。

楮の表皮を取り、白皮のみにする。この仕事に従事して何十年のベテラン陣
白皮と甘皮の緑の部分が密接で甘皮が残るため、ほかの和紙よりも強い

強靱でありながら手ざわりは柔らか。そのため「石州半紙せきしゅうはんし」は障子や書画用紙のほか大阪商人の帳簿紙として重宝され,全国にその名が広まった。

石州和紙は1969(昭和44)年には「石州半紙」として重要無形文化財、1989(平成元)年には伝統的工芸品の指定を受けた。また2009年には単独でユネスコ無形文化財遺産登録、2014年には本美濃紙、細川紙とともに三紙で「和紙:日本の手漉和紙技術」として再登録されている。

産地として若い人たちを受け入れる

「西田和紙工房」は、いま石州に4軒残る工房の一つで、西田誠吉さんは七代目にあたる。

「4軒それぞれうまくすみ分けができているんです。一社は書道に特化した、美術品的な紙。もう一軒は大きい、日本画や木版の紙。もう一軒は、糸にしたり。うちは建具、襖など表具屋さんが使う原紙が多いです。あとは文化財の修復や、最近は内装に使う作品的な和紙もあります」

「西田和紙工房」の七代目、西田誠吉さん

西田さんのところでは4人同時に紙を漉くことができる設備があり量産できるのが強み。多い時には年に2〜3万枚もの紙を漉くという。

工房には若い職人さんが目についた。女性もいる。

紙の仕事に従事したいと移住してくる人はいて、産地全体でみてもいま8人ほどの若手がいるのだそうだ。

「7年前に、浜田市が紙漉きしたい人を全国から公募しました。伝統工芸の後継者育成事業ということで、市が月15万円を3年間保証して。各地から若い人たちがきて何名か残ったんです。ほとんど女性ですよ。いまでは地元の紙屋に嫁いだ人もいたり、旦那さんが別の仕事をして奥さんが紙漉きしていたり。和紙会館で職人として働くようになった人もいます」

研修生だった女性の一人は、いまも西田和紙工房で働き、欠かせない戦力になっている。

若手が一人前になるのには時間がかかる。だがそうした若い力が、産地を前向きに変えていく力にもなっている。

「いま、和紙の原料が有り余っているのはここしかない」

赤い石州瓦の西田和紙工房の建物の前には、楮の切り株が見える畑が広がっていた。

   

10年ほど前、楮を栽培する農家が減り、原料を地元ですべて調達するのが難しくなっていた。そこで西田さんたち紙屋が主体となり、原料を産地で自給自足できるような働きかけを始めていく。

「まずは自分たちでも楮の栽培を始めてね。うちでも畑を始めたし、4軒の工房で共同の試験畑をつくって。そこでできた苗を農家さんに分けたりして。

草がぼうぼうの原野に、紙漉きの若い者と一緒に重機をいれて耕して…とやっているのを見ると、周りも『そこまで本気なら、応援しようか』って農家が一軒、二軒と出てきて。少しずつ広がっていったんです」

浜田市で、楮栽培への補助が出るようになったことも後押し、空いた土地で楮を育てる農家が増えた。いま、栽培農家は20軒近くになっている。

「今も夏場の芽かきや、刈り取りの時は若いもんを連れて手伝いに行きます。80代のじいちゃんばあちゃんが栽培しているので、なかなか彼らだけでは大変ですから」

できた楮は、すべて4軒の紙屋で買い上げる。地元で100%自給自足ができるようになったどころか、昨年は豊作だったため、地元だけでは全て消費しきれないほどの量になっている。

「他の産地に出荷することも考えようって話は出てますけど、今がピークで、また自然と減っていくでしょう。70代、80代の農家が多いので。生業になるような仕事じゃないのでね。副産物として、空いた土地に楮を植えて、毎年原木や黒皮にして出荷してもらいます」

いま、和紙の産地はどこも原料の調達が厳しい。

楮の皮を乾かした「白皮」を原料としてよそから仕入れるところもあれば、パルプを輸入して混ぜて凌いでいるところもある。

「原料が有り余っているのは今この産地くらいだと思いますよ」

と西田さんは少し誇らしそうだった。

黒皮を取って、白皮だけになった状態の楮。和紙の原料になる 

新しいタイプの仕事

伝統工芸品の産地を訪れて、これほど前向きな話を聞くことはあまりない。ほとんどの場合、需要が減り、後継者がおらず、高齢化で職人が減っているといった先行きの暗い話が多い。ところが石州和紙の産地では、数こそ多くないが後継者もいて、原料の調達も自給できている。

西田さんの工房も跡継ぎになる息子さんがいて、若い女性の正規社員、パートの方も入れると8人ほどのスタッフがいる。

何より和紙の新しい使い道に、今後さらに拓けるのではないかという可能性を感じた。

もともと西田和紙工房では、文化財の修復などの仕事が多い。最近は二条城の表具の修復に使う紙を手がけた。

さらに、石見の土地柄、神楽のお面や衣装などの需要も多い。近隣には社中が140〜150団体あり、広島や山口まで含めると400〜500近くある。コロナ前までは神楽関係の仕事が、売上の3割ほどを占めていた。

そうした既存の仕事に加えて、最近新たにオリジナルの紙をつくる仕事が増えている。新しくできる施設の室内装飾や、ホテルの内装の材料として使われるという。西田和紙工房の作品ともいえる仕事だ。

「最近では星野リゾートが『界〜出雲』というホテルをリニューアルオープンした際に、石見らしいものをということで、壁紙、間仕切りやアートパネルまで、海や空の感じを和紙で表現してほしいというオーダーをいただいたんです。紙漉きから藍染や墨染め、ベンガラ染を用いて染めまでやりました。何度も試行錯誤をくりかえしてね」

日本海をイメージしてつくられたオリジナルの和紙 

この時、試作の部屋ができたと聞いて見に行って、一度目はがっかりしたという話も、今ではいい思い出だ。和紙の張り方が、西田さんたちがイメージしていたものと違っていた。

「紙代は全部こちらで持つのでやり直してほしいとお願いしました。張りやすい形に直して、何とかこれだったらというものができて。

やはり産地代表として入るわけですから、『石州和紙ってこんなもんかい』と思われたらほかの工房にも迷惑がかかる。ここだけは譲れないってことでやり直して。そんなこともありました」

若い人たちにとっては新たなチャレンジであり、やり甲斐のある仕事だった。従来の文化財の修復などでは「和紙は素材にすぎない」という。表具の下地に何層も石州和紙が重ねられるが、表に見える一番華やかな部分は別のところの仕事になることが多い。

その点、最終形までを自社で手がけ、評価してもらえることはつくり手にとって大きなモチベーションになる。今後そうした内装やアートワークの仕事が増えれば、和紙にもまた新たな道が拓けるだろう。

西田さん自身、若い頃は10年以上京都で友禅の仕事に関わってきた。27歳で浜田に戻り、工房を継いだ。

「子どもの頃から紙の仕事は手伝わされましたが、継ぐ気はまったくなかったんです。早く出たくて仕方なくて。でも父が倒れたとき、誰かが継がんと途絶えてしまうんだなと気付いたんです。紙漉きする者がおらんようになるのはもったいない。いま自分が年を取るとなおそう思います。だんだん減っていく仕事だからこそ、誰かが受け継いでつなげるのが大事だろうと」

「道具の世界はさらに状況が厳しい」

ただし、道具の世界はさらに厳しいと西田さんはいう。

「いま全国で和紙屋さんも150〜160戸しかありません。僕が継いだ30年前に比べても3分の1にまで減っています。手漉き和紙の道具のほうはもっと厳しい。いま、漉きけたも、簀網すあみ屋さんも全国的に少なくなっていて、今後が心配されます」

紙を漉く「漉き桁」は、素人が見ればただの長方形の木の枠に見えるが、とんでもない。水がうまくきれるよう、流体力学が絡む非常に難しいつくりのものだという。

「まっすぐに見えて、まっすぐじゃないんです。微妙に曲線になっているんですよ。水を汲んだ時にその重みではじめてフラットになるようにできている。だから水がきれる。いくら腕のいい建具屋さんでも、経験のない人が形だけ真似てつくっても、その桁で紙は漉けないです。

やっぱり親方と一緒になって仕事して、親方の削りをずっとそばで見て初めてつくれるようになるものじゃないですかね」

   

紙漉きの技術に道具づくりも含めて無数の技術が集結して、やっと一枚の和紙を漉くことができる。

手漉きの和紙にはパルプの紙と違って、手ざわりというか風合いがある。繊維の凹凸があることによって、光のあたり具合で部分的に金や銀に鈍く光って見える。

私事だが、最近自宅の襖紙を変えるために、サンプル紙をいくつか取り寄せる機会があった。断然、和紙がいいのだ。品があり、無地でも存在感があり華がある。和室だけでなく、壁紙や灯りなど、インテリアとして和紙はより広まってもいいもののように思う。需要が増えれば、原料や道具の問題も解決の一歩になるに違いない。

   

次回は西田和紙の紙を糸にして布を織る、紙布作家・山内悠さんの仕事を紹介したい。

取材協力:西田和紙工房

]]>
コラボレーションが生まれるまちへ|富山 井波 https://craftweek.jp/column/71060 Fri, 10 Nov 2023 02:41:01 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=71060 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。

   

今回訪れたのは富山県南砺なんと市の井波いなみ。600年以上におよぶ木彫刻の文化を、地域づくりにまで発展させているBed and Craftの山川智嗣ともつぐさんにお話を伺いました。

「職人に弟子入りできる宿」をコンセプトにした宿、Bed and Craft(以下、BnC)は一棟目のTATEGU-YAに始まり、次々に棟を増やして今ではチェックインラウンジや飲食棟を含めると11棟に。それが呼び水となり、コーヒーロースタリー、クラフトビールブリュワリー、ベーカリー、アロマ蒸留所、新しい宿…と、7年間で42軒の新しい店がオープンしています。

以前の取材で、山川さんは井波を「ものづくりの原点に接することのできる希少な場所」と話されていました。40人に1人は木彫師というまちの特性、文化を土台にして、職人と新しい客層のマッチング、その上に新たな地域づくりが進んでいる。いま井波で起こっている動きに、工芸の新たな可能性を模索します。

山川さんのプロジェクトはこちらから → 一周まわって最先端。「井波彫刻」

山川智嗣 やまかわ ともつぐ

富山県生まれ。カナダに留学後、2009 年中国上海へ、MADA s.p.a.m. Shanghai で馬清運氏に師事、チーフデザイナーとして多くの公共建築、商業建築の設計に携わる。上海で2011 年「トモヤマカワデザイン」を設立。2017年には日本一の木彫刻のまち富山県南砺市井波にて“お抱え職人文化を再興する”をコンセプトに、ものづくり職人と新たな価値を創造するクリエティブ集団「コラレアルチザンジャパン」を設立。

デザイナーと職人がコラボレーションしやすい

甲斐

山川さんは中国で建築の仕事をされて日本に戻るとき、東京ではなく、あえて井波を選ばれたのですよね。「都会での建築の仕事は、既成のパーツを組み立てるような設計になってしまって面白くない」と仰っていました。

一方で、井波にはまだ職人がたくさんいて、直接相談して形を決めたり、素材を選んだり、原点に近いものづくりができるから面白いと。その気持は、いまも変わらないですか?

山川

井波でよかったという感覚は、より深化しています。

井波のものづくりがほかの土地と圧倒的に違うのは、中量生産ではない点です。たとえば同世代の新山くんのいる越前・鯖江のメガネや越前漆器(*)、白水くんのいる八女やめの久留米絣(**)は、それぞれ素晴らしいものづくりですが、型を用いる手工業型の中量生産です。井波は100パーセント手仕事による、完全な少量生産。いわゆる一点モノです。

木を彫っているのはみんな同じですが、共通のフォーマットがないのです。少女像を彫る彫刻家もいれば仏師もいれば、名前を出さずに職人として欄間らんまや龍をつくる人もいる。

型がなく自由なので、職人である彼らと僕らクリエイターやデザイナーが、一緒にコラボレーションや商品開発をしやすい。しかも手づくりで、クオリティの高いものができあがってくる。つまり、アイディアがすぐに形にできる。東京など都市圏にいると、アイディアがあってもつくってくれる人がなかなか身近にいません。金型が一個100万円かかかると言われて商品化できないことも。そこでデジタル工作機器があるんですが、井波なら一から手づくりできる。ほかの産地にはない、圧倒的な強みだろうと思います。

* 新山直広さんはTSUGIというデザイン会社で、主に越前鯖江のものづくりのデザインを行なっている。オープンファクトリーイベント「RENEW」を毎年開催。

** 白水高広さんは、八女市の「うなぎの寝床」という地域商社およびアンテナショップで久留米絣を使ったもんぺをはじめとする、地場の工芸品を販売。

甲斐

逆の言い方をすれば、デザイナーやクリエイターの側も、発想の自由度が得られるということですよね。また、外の人と産地の職人がフラットに影響し合える関係性がある。関わりしろという言葉がありますが、外の人が関わって面白いことができるかどうか。それが産地の未来を大きく左右する気がします。

山川

いま新たに「」という新ブランドを、手工業デザイナーの大治将典さんと一緒に立ち上げることも検討しています。まだ一人前とまではいかない井波の若手職人が、発注を受けて仕事を得られるしくみも組み込めないかと考えています。

山川さん。Bed and Craftラウンジにて

土地性をもつ文化の魅力は、見えない文脈にある

甲斐

一方で、3Dプリンターでつくられたものと、土地性をもつ手づくり品の違いはどこにあるかという問題には必ず直面しますよね。上手に彫るだけなら3Dプリンターに敵わないと山川さんも以前仰っていて。その違いについてはどう思われますか。

山川

デジタルの流れは間違いなく加速していて、それを否定する気はまったくないです。この先、ますます二分化していくでしょう。でも本当に手でつくらなきゃいけないものは残っていくと思うんです。

それはどういうものかというと、文化や土地性、その背景にある文脈が大事なもの。

ただ同じものをコピーしたり、データを形にしたりするのはデジタルでよくても、飾る場所、どこにインストールするか次第で、裏の文脈がものすごく大事になる。

たとえば、出雲大社に入れる彫刻を3Dプリンターでつくりますと言ったら、地域の人たちは怒りますよね。形そのものより、彫刻の原料となる木はどこからきたのか?誰が彫るのか?その技術は本物か?といった、背景にある文脈が大事だからです。

そうでないとしたら、コロナ前、世界中で旅行者が増えていたことと矛盾するじゃないですか。情報はインターネットでいくらでも手に入るし、知識ならChat GPTが何でも教えてくれるのに、なぜ人間はわざわざ現地にいくのか。それはちゃんと自分の目で確認したい、本物のストーリーに直にふれたいという根本的な欲求があるからです。

情報を得られるようになったからこそ、わざわざ行きたくなるんだろうなと思うんです。

甲斐

ただ形の精巧さや、物の美しさだけを見ているわけではないということですよね。目に見えない部分に価値を感じている。目に見えない文脈から、モノがありがたく感じられたり、神聖に感じられたりする。また、人は未知のもの、よくわからないものに興味を抱いたり、はっきりしないからこそ好奇心で惹かれる性質がありますよね。

久留米で染色の仕事をされている「宝島染工」の大籠おおごもり千春さんと話していた時に、野菜など食べ物の価値が、どんどん直売所をはじめ産地や生産者に近い方へ向かっているのと同様、ものづくりへの関心も、より原点に近い方へ向かっているのではないかという話になりました。洋服をつくっている現場に行きたい、染めているところを見たい。何なら自分もやってみたいと。それを「生っぽい方へ」と大籠さんは表現されていて。取材するなかで、そんな志向の人が増えている印象を私ももっています。

原点に近いほうへ行くことで、モノの本質を見極めようとしているのかもしれません。そのものがどんな環境で、どんな材料で、どんなふうにつくられているのか。

裏をかえすと規格化されたもの、デザインが優れていても工業製品化されたものは、便利だけどつまらないと思うようになっているのかなって。

Bed and Craft「RoKu」の入口
   
山川

そうですよね。一方で、ブランドやステータスの価値も薄れています。たとえば過去には、三越の紙袋に入っているだけで品質は間違いないという時代がありました。虎屋の羊羹とかね。個人が今ほど情報を手に入れられなかったから、ブランドや流通などのお墨付きがあって初めて贈る側も贈られる側も満足できた。それが今は三越の紙袋をもっていっても中身が重要で、その次に、その産地はほんとに合っていますか、この作り手は本物ですかという風に、関心が移っていったんじゃないかと思います。

甲斐

本当にいいものかどうか?の判断を、ブランドや三越のバイヤーなど別の人のものさしに頼っていたけれど、みんなが情報を得るようになって、自分で判断しようとしている。その結果、それぞれの好みに忠実になったり、価値が細分化されたりしていると。より本質的になっているってことですよね。井波のようなまちは今の時代に、ある意味で合っているのかもしれませんね。お抱え職人文化の方に近づいていますよね。

山川

全員が自分の軸をもてるようになったのはすごくいいことで 、井波にとってはチャンスだと思っています。「一周まわって最先端」ってよくいうんですけど、半ば笑い話として、いつの間にか先頭にいるのかもしれないなと。

一方、デジタルを活用する話でいえば、写真家の大木賢さんが井波で進めている「バーチャル井波」の話も面白いです。どういうことかというと、彫刻は立体物なので写真だけでは迫力が伝わらない。メタバースに空間をつくって井波彫刻の作品を3Dで見られるようにしましょうと。

この空間はギャラリーのような機能をもちます。まちに3000人来れば大騒ぎになりますが、バーチャルなので、何千人でも同時に観ることができる。そんなふうにデジタルも、使い方次第で取り入れていけたらと思っています。

井波彫刻は一点ずつ違うので、これまでにもいろんなモノがつくられてきたはずですが、売れてしまえば手元に残らない。それを記録しておく意味もあります。

2023年にできた「旅と香りの研究所CANO」。アロマオイルの蒸溜所を併設

工芸文化を土壌に、新しい展開をのせる

甲斐

一方で、今回まちを案内していただいて、重要伝統的建造物群保存地区ではないのに古い街並みがしっかり残っていることにも驚きました。この雰囲気が行政の規範でなく自主的な民意で保たれているのは、文化度の表れのような気もするのですが。

山川

井波はもともと観光地ではないんです。あくまで職人のまちであり、産業のまち。各家の窓が目貫通りに面してとってあるのも、じつは職人が一番明るいところで仕事したいからであって、接客や販売のためではありません。でも本業で欄間や建具など古い家に使うものをつくっているので、自然と伝統的な建物に合わせようという意識が働くんですよね。それが結果として観光にも役立っている。

甲斐

山川さんたちがつくられた宿も店も、井波のもつ歴史や文化、暮らしを土台にした上にできているので、まち全体にしっくり馴染んでいます。まったく文脈の異なる新しい建物をポンと建てるわけではなくて、土地の文化を最大限にリスペクトしながら、技術を引き継ぎ生かそうとしている。

歴史と技術の文化的な厚みと、新しい展開の面白さがしっかり根底でつながっている感じがします。

山川

いま全国に古民家宿がありますが、ほとんどは豪商や豪農の家だった立派な建物ですよね。でも、地域にあふれている空き家の多くは、うちが宿にしているような普通の民家。こういう建物をこそ生かさないと空き家問題は解決しないです。

地元の人が特に意識していなかったものに息を吹き込んで、その価値を再認識してもらうことが裏テーマとしてありました。

井波の街並み

   

甲斐

6棟の家をリノベーションするとなると、お金もかかります。持ち出しでやっていらっしゃるんですか?

山川

資産家だと誤解されたりするのですが、うちが直営しているのはTATEGU-YAだけで、ほかの宿はすべて「オーナーシップ制」で運営しているんです。オーナーが土地建物を取得して改修費を支払って、僕らが運営委託を受けている。

賃貸ではなくて、売上連動でお返しするしくみになっています。苦しい時も儲かる時も一緒という同じ立場で関わってほしかったんです。

物件の所有と運営を分ける形は、じつは外資系のホテルなどではよくあります。たとえば三井不動産のビルにリッツカールトンが入って運営しているなど。ただ、古民家では珍しいかもしれません。

甲斐

どんな方がオーナーになられるんでしょう。その時、オーナーにとってのメリットは何ですか?

山川

たとえば、オーナーの一人は僕の上海の友人です。貿易の仕事をしていて日本に別荘を持ちたいけれど、実際に使うのは年間で10日間ほど。そこでオーナーになった宿の無料宿泊を配当として受け取り、それ以外の期間は、僕らが清掃やメンテナンスをして宿として営業する。Not A Hotelみたいなものですね。

ほかのケースでは、「沖縄ツーリスト」という法人がオーナーです。旅行代理店が自主運営する宿泊施設をもっていると、独自のツアーを組むことができたり、BnCの取り扱いを独占できるなど相乗効果があります。不動産投資としてみると大儲けはできませんが、地方創生に寄与したいという思いがあって、プロジェクトにジョインしてもらっています。

Bed and Craft「RoKu」
「旅と香りの研究所CANO」

工芸のまちに、7年間で42軒の新しい店

甲斐

宿が一軒しかなかったまちにオーナーがつくのも、まちの歴史や文化に魅力があるからですよね。瑞泉寺をシンボルとして、井波木彫の文化が今もしっかり感じられるからではないかと想像します。

山川

はじめはここに宿をつくるなんてどうかしていると言われたんですよ。それが2016年に開業してから1年で、1000人泊を達成しました。外国人の割合が62.2%で、そのうち64%が欧米人です。(開業の過程はこちら

こうした地域密着型の宿は、間接的に地域の稼ぎを増やすことにも繋がります。全国チェーンの大手ホテルを建てると施工業者もマネージャーも東京から来ますが、うちの宿の場合、工事は地域事業者にお願いしますし、スタッフも地元在住の方になります。6室しかないホテルでも、地域に落ちる利益が大手ホテルに比べて7.5倍違うという結果が出ています。

甲斐

なんでもオープンにするのではなくて、閉じるべきところは閉じて、地域の中でお金をまわしたほうが結果的に自分たちにかえってくるという話ですよね。

宿の中だけで完結せずに、できるだけお客さんにまちを回遊してもらうまちやどの発想も同じです。以前、2018年に井波を訪れたときは飲食店も少なかったし、宿もBnCが2軒あっただけでしたが、いまではコーヒー屋さんやパン屋、クラフトビールの店もできて充実しています。

山川

前に甲斐さんが来られたのは2018年秋ですよね。翌年2019年にはBnCのラウンジと、燻製料理が食べられるビストロ「nomi」ができました。海外の人はバスなどの公共交通機関で来ますが、日本人はレンタカーで来る人が多くて。深夜に到着して翌朝早く出る人もいて、まちをゆっくり見てもらえないのです。

そこで、チェックイン機能をもつラウンジを宿と分けて、あえて移動してもらうことでまち歩きになる導線を意図してつくりました。来てくれたお客さんにBnCの印象がどう残るか、それには僕はあまり関心がないんです。

それより、井波のまちの印象を持って帰ってほしい。まちなみや職人さんのこと、木彫文化など、まちの本質を知ってもち帰ってほしいのです。

Bed and Craftラウンジ
      
甲斐

BnCに興味をもって訪れた結果、地域の魅力にも気づくということですよね。越後妻有の大地の芸術祭も瀬戸内芸術祭も、はじめはアートを見に行くのが目的でも、現地へ行くとアートと関係なく、もともとあった地域の魅力に惹かれた人はたくさんいると思うんです。それと同じ状況をつくるということですね。

でも、自分の宿や事業のことだけでなく、一つの上のレイヤーでまち全体や工芸のことを考えるのはなかなか難しい気もします。

山川

そこで、地域のことはいま「ジソウラボ」という一般社団法人をつくって進めています。地元で林業の会社をやっている友人が代表で私も理事の一人ですが、空き家や継業などまちづくりに近いことはそちらで。ジソウラボが主体になって、パン屋や、クラフトビールの醸造家、木工家など新しい事業の人材を募集して、井波の空き家で実践してもらう試みを始めたところ、お店が増えているんです。

まちづくりというと公共性の高いものと思いがちですが、民間事業者の集まりだからこそうまくいっている面があると思っています。クラフトビールもパンも、個々の「始めたい」という強い動機から生まれたもの。不本意にやらされている人が一人もいません。いま7年間で42軒の空き家がお店になりました。

甲斐

素敵ですね。もともとこの土地に浸透してきた井波木彫の土壌の上に、職人の個性や技を生かした新しい事業が生まれている。そこに刺激を受けた若い人たちが、また違った事業を展開していく。何とも理想的な形になってきているんだなと感じました。

井波ほどまち全体に文化が染み渡っている場所は希少だと思いますが、今まだ発掘されていない、地域に眠る価値を見つけて、目に見える形にしていくことの大切さも感じます。画一化されている社会の中で地域の個性を出すとしたら、文化や風土以外にないのではと思えるからです。

編集後記

一見すると「古いもの」に見える彫刻を従来とは違った形で生かし、新しい感性が求める形に刷新していく。外国人にも受け入れられた宿のしくみづくりに始まり、井波では絶えずそのトライと結果を見せてもらっている気がします。

これから土地固有の文化は、観光においても移住促進においても、ますます欠かせない価値あるものになると私は思います。
ただしそこには、従来「生業なりわい」だった仕事を「文化」に変容していく視点と手法が必要になる。文化の土壌を耕し、外の人を惹きつけてきた井波には、懐古主義とは違い、新しい道を歩むためのヒントが多く隠されているのではないでしょうか。

]]>
一周まわって最先端。「井波彫刻」 https://craftweek.jp/column/69732 Fri, 25 Aug 2023 13:36:42 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=69732 地域にとって工芸は、この先、いま以上に価値を発揮する、秘めた宝になるのではないだろうか。
自然、風土から育まれた仕事を、いかに文化、産業として継承し昇華させていくか。
新たな視点と手法で実践する人たちがいる。
この連載ではその現場を見にいくとともに、工芸の新たな価値を、つくり手やつなぎ手と考えてみたい。


木彫刻と聞いて、どんなものを思い浮かべるだろう。床間に飾られたわしの置物だろうか。欄間らんまかもしれない。どことなく渋いイメージのものが多いのではないか。 その木彫刻が、新しいインテリア品や内装技術としての顔をもち始めている。木彫の産地、富山県南砺市井波なんとしいなみでは、ここ数年で新しい宿や店が何軒もオープンしている。この冬、新しい風の吹く井波を訪れた。

井波の街並み。井波別院瑞泉寺に続く「本町通り」
写真:Ken Ohki

「木彫りの里」であり「信仰の里」

カンカンカン…とどこからともなく聞こえてくるのは、木槌の音。木彫刻を彫る音である。目抜き通りの「八日町通り」は「井波別院瑞泉寺」に続く参道で、ガラス戸の奥には、職人が働く様子が見える。軒を連ねる家々は宿ではなく、木彫刻の工房なのである。

富山県南砺市井波は、木彫に携わる職人がいまも100人以上暮らす稀有なまちだ。この規模で残る産地は、日本全国見渡してもほかにない。

写真:Ken Ohki

   

北陸は古くから浄土真宗の信仰が厚い。井波彫刻も、寺社彫刻を起点に始まった。瑞泉寺は浄土真宗本願寺派の門徒による反乱の際、一向宗の一揆の拠点になった寺だ。何度も戦乱で焼き討ちにあい、火事で消失するたびに再建された。1760年代の再建時に京都から御用彫刻師が派遣された際、地元の大工が技法を教わったのが井波彫刻の始まりといわれる。

寺社に伝えられた技術が一般の民家にも応用され、欄間や建具、天神像など工芸品として発展した。梅や松、天に昇る龍などを彫刻刀のみで彫り上げる技術には、目を見張る精緻さがある。

いまも井波には信心深い門徒が多く、各家には大きな仏壇が置かれているのだと、寺の受付の女性が教えてくれた。

まちを歩くと 、随所に木彫りの装飾があしらわれ、木彫文化が行き渡っているのに気づく。それでも木戸や格子の構えの家が並ぶまちは、国指定の「伝統的建造物群保存地区」 というわけではない。あくまで地元住民の意志で自然と古い町並が維持されているのだ。

井波のまちのシンボル「井波別院瑞泉寺」
写真:Ken Ohki

井波木彫の背骨をつくる徒弟制度

産地としての井波には二つの特徴がある。ものづくりの集積地にしては珍しく、分業制が進まなかったこと。もう一つは、今も徒弟制度が残っていることだ。

分業制ではないため、工房ごとに営業から材の調達、作品づくり、納品までを行う。そのため同じ井波木彫師であっても、職人によってつくるものの趣きや作風がまるで異なる。20代から90代までの作家や職人がいるが、うまく棲み分けして、産地全体でさまざまな仕事を引き受けてきた。

そして、徒弟制度がいまに続くこと。親方へ弟子入りして、修行期間の5年間は住み込みで仕事を手伝い、組合が運営する訓練校(*)に通う。かつて日本の職人の技は徒弟制度によってつちかわれたが、いまも残っている地域は少ない。その井波でも、最低賃金などの労働問題や、女性を受け入れる難しさから、弟子入りの制度は崩れつつある。

だが、この徒弟制度と訓練校のおかげで、職人同士の縦横のつながりが強い。互いがライバルというより、協力し合う仲間であって、みなで技術を高め合う意識が醸成されてきた。この二つの特徴が、井波の産地としての背骨を形作っていると言っていい。

前川大地さんの作品。欄間
写真:Ken Ohki

* 井波彫刻協同組合による運営で、学校の「先生」は現役の彫刻師だった。
同級生は、独立後は同世代の職人になる。2023年3月時点で休校中。

一周まわって先端に。職人に会える宿「Bed and Craft」

井波に暮らす建築家の山川智嗣ともつぐさんは、作家や職人の作品を見せる場として宿「Bed and Craft」を7年前にオープンした。その理由をこう話す。

「井波には仏像を彫る仏師や、伝統的な龍などの欄間を彫る職人、現代的な彫刻家など、多彩な職人や作家がいるのに、お客さんと直接出会う接点がないんです。

さらに言うと、木彫刻は旅行ついでにふらっと買うにしては値段が高い。そこでまずは宿で作品を見て知ってもらって、ワークショップで作家さんと話してファンになってもらえたら、人生の節目に作品を依頼してくれる関係性がつくれるんじゃないかと考えました」

「Bed and Craft」の運営者であり、建築家の山川智嗣さん
写真:Ken Ohki

   

一棟の宿が一人の作家のギャラリーで、宿泊料の一部が、作家に還元される。このしくみを「マイギャラリー制度」と呼んでいる。

2016年のオープンから一年で1,000人以上が訪れ、その7割が海外からのお客さんだった。西欧では量産型の品におされ、すでに手仕事が淘汰されていて、こうした仕事場を間近に見られる機会は貴重なのだという。

2016年に「TATEGUYA」、2018年に「taë」、2019年には「KIN-NAKA」「MITU」「TenNE」「RoKu」「TOMOE」と立て続けにオープン。2023年5月現在、レセプション施設や飲食店も合わせると全部で11施設ある。木彫師だけでなく、「taë」は漆作家の田中早苗さんのギャラリー、「RoKu」は作庭家・根岸新(ねぎしあらた)氏とのコラボレーションによりつくられた。

2016年に山川夫妻が自宅の2階を宿としてオープンした「TATEGUYA」 
写真:©Kosuke Mae
2018年オープンの「taë」内観
写真:Ken Ohki

   

宿にするのは豪商の家ではなく、元は一般の民家。それも一作家の作品を見せるために世界観をつくり、設計するという贅沢さ。いかにもお金がかかりそうだが、オーナーシップ制度をとっているのが秘訣だという。オーナーと運営会社が異なる例は大手ホテルではよくあるが、小規模の宿としては珍しい。

Bed and Craftのオーナーは、日本に家を持ちたい海外の個人投資家や、旅行会社。山川さんたちがオーナーから委託を受けて家を改修し、宿として運営している。

「井波のものづくりが産地としてひときわ面白いのは、いまもすべて手製で、一品として同じものができない点です。

直接職人さんと話してゼロからものをつくるなんて滅多にできない。家を建てるパーツも規格品ばかり。新たに金型をつくると一つ100万円なんて話になってしまいます。 でも昔は、身近にお抱え職人がいて、こういうものをつくってほしいと依頼するのはごく当たり前でした。ユーザーと職人がやり取りするなかで技術や表現方法が高められてきた。それを今もできるのが井波なんです。僕らみたいな建築家やクリエイターにとってこれほど面白いまちはない。一周まわって最先端にいるんじゃないかと思います」

茗荷(みょうが)をモチーフに彫ってもらった木彫刻。Bed and Craft Loungeの入口取手
写真:Ken Ohki

井波とは切り離せない木彫刻

初めて筆者が田中孝明さんの作品を見たのは、「Bed and Craft」の「TATEGU-YA」でのことだった。この宿は田中さんの作品ギャラリーを兼ねている。

田中孝明さんは、井波の木彫作家の一人。作品にはお雛様などの節句人形やコンセプチュアルな少女像が多い。 「たね・ひかり・みず」と題された作品を見た時は一瞬時が止まった。透明感のある少女像で、「みず」の子の表情は優しくやわらかく、ふわりと飛んでいきそうに軽やか。「たね」の子は神々しくさえあって「祈り」を想起させた。

写真:© Kosuke Mae

   

田中さんは高岡工芸高校を卒業後、井波の親方の元へ弟子入りした。今から25年前の1997年頃だ。当時は組合員も200名近くいた。 どんな親方につくかは「運」次第。弟子入りする側が何軒か見学して決めるが、初めて見ただけでは親方がどんな職人なのかよくわからない。わからないまま弟子入りするのだと田中さんはいう。

「僕の親方は日展に出品している方だったので、夜は自分の作品をつくるといいと言ってもらいました。人によっては早く正確に彫ることのできる職人としてエキスパートになっていく人もいる。親方に影響される面が大きいので、誰に弟子入りするかでその後の人生が大きく変わります」

井波の木彫作家、田中孝明さん
写真:Ken Ohki

   

同じ訓練校で学んだ職人とは、独立後も職人仲間としての関係が続く。田中さんに犬の彫刻の依頼があった時は「僕よりうまい人がいる」と別の職人を紹介するし、代わりに雛人形の依頼がまわってくる。 組合に文化財修復などの仕事が入ると、複数の職人が集まって一気に仕事をすることもある。

「その時のチーム編成がよく考えられていて。70代80代のベテラン職人さんに加えて30〜40代の中堅どころ。そこに必ず一人前じゃない若手も入れるんです。若手がベテランの仕事を見て覚えるいい機会になる。井波全体で技術を維持する工夫なんだと思います」

田中さんは職人仕事もするが、いまは作家の仕事を主にしている。だが彫刻師としてのアイデンティティは変わらず「井波彫刻」にあるという。

「今の自分には、井波を離れて木彫をやる意味はないと思っています。今も行き詰まると瑞泉寺へ行きます。あれはどう彫っているんだろうって見上げて」

田中さんたち井波彫刻師のそばにはいつも瑞泉寺がどんと構えていて、「井波彫刻の原点ここにあり」といった揺るぎない存在感を放っている。この土地のもつ歴史文化と木彫刻は切り離せない。

田中さんの工房で、Bed and Craftの宿泊客向けにワークショップも行う
写真:Ken Ohki

文化財の修復を請け負える産地は井波くらい

2019年オープンの「KIN-NAKA」は、木彫師の前川大地さんのギャラリーとしてつくられた。

前川さんは「井波木彫工芸館」の二代目。父の前川正治氏は日展の特選に選ばれるなどの受賞歴をもつ方で、伝統的な井波彫刻師で作家でもある。 大地さんは30歳近くまで海外へ留学するなどして井波へ戻ってきた。帰ってきてまず感じたのは危機感だったという。

「ひと昔前は井波に200人職人がいると言われていましたが、いま140人くらい。その多くは高齢者で、20年も経つと半分以下になってしまうのが見えています」

「井波木彫工芸館」の2代目、前川大地さん
写真:Ken Ohki

   

何とかしたいと思うのは、井波の価値を強く感じているからだ。

「木彫刻の産地といえる場所は、日本ではあまり残っていない。木彫刻で有名な地域があるにはありますが、もう職人が数えるほどしかいないと聞いています。文化財の復元など、大きなプロジェクトを引き受けられるのは、職人が多く残る井波くらいではないかと思うんです」

長く外に出ていたせいか、少し引いた目で井波の町を俯瞰ふかんしている。宿「KIN-NAKA」も前川さんの視点から、テーマは「井波を思う」になった。

2019年オープン「KIN-NAKA」
写真:Ken Ohki
「KIN-NAKA」に入る前川大地さんの作品
写真:Ken Ohki
「KIN-NAKA」に入る前川大地さんの作品
写真:Ken Ohki
「KIN-NAKA」に入る前川大地さんの作品
写真:Ken Ohki

   

井波で生まれた過去のヒット商品である欄間の需要は、一般家庭から和室がなくなるのにともなって減りつつある。それでもこの先、井波木彫に将来性を感じるのは何故なのだろう。

「大きくいうと2つの柱があります。一つは、従来の伝統技術を用いた文化財の復元などクラシックな仕事。最近では名古屋城の本丸御殿を復元しました。納期のあるタイトなスケジュールの中で、彫刻師集団としてばっと複数人が出向いて対応できる産地は井波しかない。
一方で生活品としての彫刻。欄間も、もとは社寺仏閣の彫刻を一般住宅にという発想から生まれたもの。現代でもそうした、生活の中で使えるアイテムを生み出せたらと思っています」

写真:Ken Ohki

   

前川さん自身、職人的な仕事もすれば、名前を出して作品をつくる表現者でもある。 KIN-NAKAに設置された雲の形のシャンデリア(冒頭の写真)は、前川さんの代表作だ。職人の高い技術力と、作家としての表現力や創造性。この両方を、一産地のなかで掛け合わせれば新しい商品を生み出せる。

「道具をつくる人や、木材を得る製材所など、井波にはまだ産地の生態系が残っています。去年、懐の深いアール(曲線)が求められる仕事があって。専用の刃物を新調すると何十万円もかかるんですが、宮大工さんのところにいったら『あ、できますよ』って。いつもの機械を、違う使い方をしたらできると言ってくれて。そういうことの積み重ねです。いろんな人の知見を借りることができる」

個人が本質を見るようになる世界

井波の強みは何といっても、職人層の厚さと技術力の高さにある。山川さんは、それが近年、感度の高い人々がモノを選ぶ傾向にマッチし始めているのではと話す。

「以前はモノを贈るとき、包み紙が重要だったと思うんです。このデパートのモノなら安心というステータスが大事だった。 でも誰でも情報を得られるようになると、ブランドや、表層的なものさしが価値を失って、それぞれが本質を見るようになっている。そのつくり手は本物か、産地はどんなところで、どんな作り方をしているのかが大事になっているんだと思います」

Bed and Craftのラウンジにて
写真:Ken Ohki

   

歴史あるまちで職人が手彫りしてくれる確かさ。対面でじっくり話した相手の心が感じられる一点モノ。規格品よりずっと価値を感じられるに違いない。

「同じ形をつくるだけなら3Dプリンターなどで十分。でも、手でつくらなきゃいけないものは確実に残っていくと思います。
土地性やその背景にある文化、文脈が大事なもの。誰が彫っているか、その木はどこから来たのか。なぜこの土地でつくられているのかに意味があるものです。それがこの先も土地の文化であり続ける」

ある土地に、その工芸、ものづくりが発展した理由。歴史と技術の積み重ねを土台にした上にしか、新しい道は拓けない。それが土着の文化をその先へつなぐ、唯一の道ではないかと思う。

写真:Ken Ohki

   

  

  


        

井波彫刻の関連情報

竹中大工道具館(兵庫県神戸市)で、「井波彫刻 物語を彫る」(〜2023年12月3日)が開催されています。
https://www.dougukan.jp/special_exhibition/inamichoukoku

]]>