もののみごとを訪ねて – 日本工芸週間 https://craftweek.jp Mon, 20 Oct 2025 04:46:11 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=7.1 伏見眞樹が受け継ぐ、昭和塗師たちの「明漆会」魂 https://craftweek.jp/column/71853 Wed, 10 Jan 2024 02:21:59 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=71853 工芸の作品には、固有の美しさを支える物語があります。その物語が次世代の形を導き出していくのではないでしょうか。

手と心が生み出す見事な仕事を訪ねながら、工芸の現在形を伝えたいと思います。

漆器は産地性の高い工芸だ。輪島や山中、会津、浄法寺、津軽などがよく知られるところだろう。そんな先入観があったため、以前、漆芸作家・伏見眞樹まきさんの「伏見漆工房」が葉山にあると聞いたとき、なぜ葉山なのだろうかと不思議に思った。が、考えてみれば、流通が発達した現代、分業制ではない「作家」の漆器ならば、好きな場所で制作できる。伏見さんの場合は、結果的に葉山を選んだ。

「金沢文庫で育ったので、近い土地がよかったんです」

現在、妻の昌子さんと2人で制作している。伏見漆工房の漆器は、シンプルで品のいい普段使い。ふわりと光をまとい、目が引き寄せられる。漆器の品質は見た目で判断しにくいし、華やかな漆器というわけでもない。けれど、何かが違うのだ。

質が問われる普段使いの漆器

手仕事に興味を持ち始めた頃、手に取った書籍がある。とんぼの本『食器の買い方選び方』(新潮社刊)。当時、手仕事の道具を選ぶコツを具体的に示してくれる工業デザイナー・秋岡芳夫さんの存在は、私にとってモノ選びの羅針盤だった。その秋岡さんをして、漆のよしあしを判断することは難しく、手っ取り早いのは値段で見ることだといわしめる。

「昔は、一日一円といった。今の目安は一年一〇〇〇円。三〇〇〇円のお椀なら三年もつ(三年しかもたない)ということだ」

これは、お正月などに使うハレの日の漆器の話ではない。日々使う汁椀に、ちゃんとお金を使いなさい、という神託のごとき言葉である。1987年初版の本だが、当時で8000円の塗り椀は10年使っていい艶になり、修理すればさらに使っていける、とある。今ならば、1万円から2万円の汁椀。値段の差は、工程や技術の差であり、土台となる木地や表面を塗装する漆の質の差である。樹脂の土台にウレタン塗装のものは論外だけれど、本漆と銘打っていても、工程の途中で手抜きがあったり、使う漆に混ぜものが多ければ、経年変化を楽しめない。一方、誠実に制作された漆器は少々値が張っても、使ううちに艶が生まれ、修理も可能ゆえ長く長く愛用できる。普段使いこそ賢い買い物をすべきなのだ……。こうした考え方が広まった背景に、「明漆会」の存在があると伏見さんはいう。

明漆会のメンバーは、漆の歴史や明漆会のこと、制作に携わった人々を記した紙を作品に添えた。つくり手の姿を明らかにして品質を保証する、トレーサビリティーである。伏見さんの師匠である木曽の佐藤阡朗(せんろう)さんや、越前漆器の山本英明さんは明漆会の第二世代。

日本における漆器の歴史は長いものの、概して贅沢な器で、貴族や寺院、武家、富裕商人など、ハイソサエティの調度や器であり、一般庶民が普段使いするものではなかった。転換期は明治維新。活気づく自由経済の中で量産が始まり、漆器は庶民の手に届くものとなってくる。が、売りに走れば品質は下がる。その傾向は戦後ますます顕著になり、漆器の信用は地に落ちてしまった。

「漆器の名誉回復の思いも込めて、明漆会というものが誕生したんです」

「明漆会は、普段に使う漆器のパイオニアだと思います。高度成長期、日本が豊かになってきて、多くの人がお正月を家で迎えるのに重箱を買ったりした。でも普段使いする感じではなかったんです。そんな状況の中、明漆会の人たちがちゃんとした『塗立ぬりたて』の無地の漆器を世に出した。ピカピカじゃない、つや消しです。それを心ある人たちが使うようになったのが普段使いの漆器の始めなんじゃないでしょうか。革命的なことだったと思います」

明漆会の活動は20年で終わったけれど、その志は受け継がれ生き続け、伏見さんは、自分もまたその1人であると密かに自負している。伏見さんが作品と人に惚れ込んで弟子入りした佐藤阡朗せんろうさん、彼も明漆会のメンバーだった。

葉山の工房で作業をする伏見眞樹さん。ていねいな仕事を進める一方、新しい方法や機械類の活用にも関心が高い。
伏見漆工房にとって、妻の昌子さんの存在はとても大きい。鎌倉彫の訓練生時代に知り合い、眞樹さんを支えてきた。「私は作家としてつくることより、裏方のほうが合っていると思っています」。

伏見さんの漆器は、「塗立て」た漆の質感が真珠のようで、使い込むほどに薄づきの漆が透けてくる。使いながら穏やかに艶めく漆器のたたずまいは、控えめで静かだ。「塗立て」は漆器における上塗り技法で、刷毛で漆を塗って仕上げる。一方、艶出し加工で仕上げる漆器もある。「呂色ろいろ仕上げ」という。これは、塗り立てた後に研磨を繰り返して光沢を出す。炭を使い、細かい粒子で磨き上げる手間のかかった仕事で、蒔絵まきえが施されることも多く、当然値段の張る贅沢品、晴れの日仕様だ。ツヤツヤした漆器が好まれた時代には、艶を促す溶剤を漆に加えた呂色仕上げも登場。でもそれは、漆本来の美しさから遠のくことでもある。一方

「塗立ては、使い手に呂色仕上げを委ねているんです」

その分手の届く価格となるし、育てる楽しみがある。百聞は一見にしかず。伏見家で使っている漆器を運んできてもらった。

伏見漆工房のロングセラー。新品と伏見家で使ってきたものを並べてみた。左からスープ皿、そば猪口、竹スプーン。きちんとつくられた漆器は、使い続けることで磨かれ、変化していく。
最近人気のリム皿だが、伏見さんはだいぶ以前から手がけていた。「陶芸家・柏木千繪(かしわぎちえ)さんのリム皿を写させていただいたんです」。柏木さんの白磁と、新品(左)、使い込んだもの(右奥)。「焼き物に比べて軽いのも、漆器のいいところですね」。木工轆轤(ろくろ)で木地を削る挽物(ひきもの)は、設計図を引いた上で、木地師に依頼している。

新しいものと比べることで、経年変化により艶が生まれることが理解できる。これぞ漆器の醍醐味だ。そしてふと気づく。伏見さんの漆器には洋食器を彷彿とさせる形が多い、ということに。漆器といえば汁椀や重箱のイメージが強いけれど、洋食で育った伏見さんが発想する器の形は伝統的なものばかりではなく、スープ皿やリム皿などが印象的だ。現代の食生活に根ざした漆器を、伏見さんは家族との暮らしの中から発想し、展開してきた。中でも竹スプーンは、伏見さんの出世作。娘さんの離乳食用がきっかけでつくり始め、今では30パターン以上のカトラリーを展開している。

近隣に自生する孟宗竹もうそうちくを伐採し、自ら削り漆を塗る。口当たりや口抜けをとことん研究し、完成度を高めてきた。漆器というのは、前にも書いたように差異がわかりにくいのだが、伏見さんの場合、竹スプーンが作品のスポークスマンになった。形の美しさ、上品な塗り、口当たりの滑らかさを饒舌に伝えるからだ。若き日に鎌倉彫の訓練校を経て職人となり、彫りと塗りを経験、その後、木曽在住の漆芸家・佐藤阡朗さんに弟子入りした。日常的な漆器の美しさを学んだ伏見さんは、彫りと塗りの技術を習得しているつくり手である。使う人は、その力量を、手に取り、口に含んで体感することになる。

葉山の孟宗竹(もうそうちく)を削ってつくられるスプーンは、設計用の道具を駆使して立体的に設計されている。「グラフィックデザイナーだった父の仕事が、こうした作業に影響しているかもしれませんね」。
スプーンのくぼみは、彫刻刀でコリコリと削っていく。「もっと合理化できるんですけど、この作業が楽しいので」と笑う。スプーンの輪郭は、竹の皮目を残して削る。皮目は硬いため、丈夫に仕上がるのだ。
工房の壁に並ぶ、カトラリーの型紙。大小さまざま、用途も多岐にわたる。ナイフやフォークも展開している。

天然漆を長期保存して生まれる「蔵漆」とは

漆器の品質は、当然ながら漆に負うところが大きい。どんな漆を選び、どのように扱い、どう塗るか。伏見さんのこだわりはかなりディープだ。「おそらく漆器より、漆そのものが好きなんです(笑)」。伏見さんが使う漆の大半は、生産者直送の国産漆。木曽修業時代の弟弟子である大出晃さんから購入している。大出さんの本職は漆掻うるしかきなのだが、採取した漆を使って自ら漆器を制作したくなり、佐藤阡朗さんに入門した。

「独立した頃は、国産だし貴重品だからと、大作のために保管していたんです。通常は中国産の漆を使っていました。でも、次第にその使い分けは違うと思うようになり、大出君の漆を使い始めたんです」

大出さんの採取する漆は質が高く、「このきれいな漆をなんとかそのまま塗ることができないかと考えました」

中国漆は粘りがあって扱いやすいが、国産漆はサラサラで粘りが少なく、厚塗りしにくい。

「もともと厚塗りが好きではなかったので、工夫のしがいはありました」

ではどう扱うか。試行錯誤を繰り返しているうちに、塗り方が大きく変わった。同時に、仕上がりも変化した。伏見さんならではの、薄づきで透明感のある塗りになっていく。

「薄塗りだと土台の木地が透けます。木が生きるのがいいなとも思いました」

ただし、アラが目立ちやすい。漆は、工程のたびにしてゴミを取り除いた上で使うが、それでも夾雑物きょうざつぶつは残る。厚塗りならば、微細なゴミは漆の層に沈んで見えなくなるが、薄塗りではそうならず、神経を使う。でも、

「色々便利な道具を探して取り除くようにしていますよ」伏見さん、美しさのための苦労は厭わない。

さらにあるとき、伏見さんは思いがけない発見をする。大出さんから届く荒味漆あらみうるし(木から掻いたままの漆)は、透明なポリプロピレン容器で届く。それまでの木桶や紙の容器と異なり、中身が見える。

「これを数年置いておくと、漆が分離していくのがわかるんです」

昔から、天然漆を使うつくり手は漆が容器の中で分離していることを知っていた。だから、必ず撹拌かくはんして使用する。が、ここまで明らかに分離するとは。伏見さんは目を見張った。

「これを素黒目すぐろめしたら、やはり分離するだろうかと試したくなったんです」

漆掻きで漆芸家でもある大出晃さんの「荒味漆(あらみうるし)」は、ポリプロピレン容器で送られてくる。確かに分離がはっきりとわかる。漆掻きは、6月の梅雨入り頃から始まり、最初に漆の木に入れる傷を1辺目と呼ぶ。何日かしたら、また傷を入れる。そうして、順々と傷を入れて漆液を採取していく。ラベルにある「11辺、12辺、13辺」は、もっともウルシオールの含有が多い、8月の「盛漆(さかりうるし)」。
伏見さんは、「黒目(くろめ)」て分離させた漆をサランラップ©︎で密閉する。左はウルシオール分の多い上澄み、右はゴム質の多い沈殿した部分。なぜあまたあるラップの中で、サランラップ©︎かといえば、他のラップよりも密閉性(専門的には酸素バリア性)が高いのだという。太古より人は、漆を溜めた容器に蓋をすることで乾燥を防いでいた。縄文時代には木の葉を使い、奈良時代以降は和紙を、さらに油紙へと。そして昭和の半ば、サランラップ©︎の登場により、安定して長期保存ができるようになった。

「素黒目」について少し説明したい。漆の木から採取したままの漆液は「荒味漆」と呼ばれ、木くずやゴミなど夾雑物が含まれる。これをろ過した「生漆きうるし」は水分含量が多く、そのままだと粘り気が少なく固まりづらいため、水分量を減らす「黒目」が必要になる。その中でも、油や樹脂を入れずに精製したものは「素黒目」と呼ばれる(油や樹脂は、艶や色のため、また、コストダウンのために添加するという)。一般的には、漆商から機械精製の素黒目漆を仕入れて使うのだが、それでは物足りないと感じる人は、自ら「天日黒目てんぴぐろめ」を行なっている。夏の晴天下、木桶を外に運び出して生漆を入れ、船のかいに似た棒で漆をゆっくり時間をかけて攪拌かくはんする。伏見さんが使う漆は、すべてこの「天日黒目」をしたものだ。毎年6月頃に作業を行なう。以前、輪島で天日黒目に立ち会ったことがある。そこでは8月だったが、

「関東地方では8月より、梅雨入り前の6月のほうが、乾燥していて作業しやすいんです」

天日黒目の漆には、天日干しの魚や塩の旨味に通じる利点があるのだろうか。

「どうなんでしょう。漆商がつくる素黒目漆はとてもよくできていると思います。ただ、調整済みの漆を使うのは、ペンキを塗るのと変わらないように僕は感じるのです」

近年は湘南、伊豆エリアで漆芸に取り組む中堅、若手の作家が増え、彼らにも声を掛けて、共同で天日黒目を行なっているという。そうして天日黒目した漆を数年置くと、荒味漆ほどではないが、明らかに分離していた。なぜ分離するのかは、漆の含有成分と、それぞれの比重による。漆の主成分は、ウルシオールと呼ばれる樹脂分で、他にラッカーゼと呼ばれる酵素成分とゴム質で構成される。分離した上の部分は主にウルシオール。下に沈殿するのは主にゴム質。一般に国産漆はウルシオールが多く含まれているという。

ウルシオールが多ければ乾きが遅くて透明度が高く、ゴム質が多ければ乾きが早く透明度が低い。この性質のグラデーションを四分割して使い分けてはどうだろう。こうした発見と経験を経て、伏見さんは長期保存の漆に名前をつけることになる。「蔵漆くらうるし」と。「名付け親は友人である元商社マンの僧侶・木村共宏さん。各層に分かれた蔵漆をそれぞれ份蔵漆ぶんぞううるしと呼ぶことにしました」。

上層部は份蔵極上透漆すきうるし。そのまま溜塗りしたり、顔料を加えて朱塗りの上塗りに。

中層部は份蔵透漆。黒漆に加工して上塗り、中塗りに使う。

下層部は份蔵濁漆。黒漆に加工して中塗り、生漆に加えて下地に使う。

最下層部は份蔵溜漆。漆の乾きを早める添加剤として、また、接着剤として金継ぎに使う。

補足として説明すると、漆は、木地に下地、中塗り、上塗りと、漆の質を変えながら塗り重ねていく。

漆刷毛でカップの内側を塗る。塗っては拭き取る作業を繰り返す、拭き漆を施す。板状の刷毛は、漆刷毛。昔から人毛を使っている。

もともと漆は、採取時期や場所により粘度差があるので、それを見分けて用途別に使ってきた。近代以降はテレピン油を使って粘度調整することが多くなったが、分離させて使う「蔵漆」ならば、漆の特性が際立つし、4種類を適宜ブレンドすれば粘度調整もできる。漆以外のものを加えない純度100%だ。

「漆器の評価は、漆そのものに原因があるわけではなく、混ぜたもので濡れ衣を着せられてしまったと思うんです。漆が気の毒です。漆の性質を考えれば、漆だけのほうがいいですよね」

蔵漆は中国産漆でも可能だ。このところ、運搬方法や管理の意識が高くなり、中国産漆の質が格段に向上しているという。

「ただ、中国産だといつどこで採取したかがわからないですし、またブレンドされていることが多いので、国産漆ほどはっきり分離しないところはあります」

日本の漆は、6月の梅雨入りから採取され、10月頃に終了する。初夏から秋までの期間、気温や湿度が変化する中、漆の成分も変わっていく。ウルシオールの含有が多いのは盛夏に採取される「盛漆」と呼ばれる漆で、透明度が高く、漆器産地でもこれを上塗りに使ってきたという。漆はそうやって使い分けられてきた。だから

「色の濃い中国産のほうが落ち着いた色になるので、必要に応じて使っています」

2000年に採取した鬼無里の漆(大出晃さん採取)のサンプル。採取の始まる6月から終了する10月半ばまでの漆を、左から並べている。中心から左のほうが透明な部分が多く、ウルシオール成分の違いがわかる。「でも、これはあくまで2000年の漆です。その年により状態が変わる。農作物と同じです」。後ろの棒は、漆掻きが刃物で漆の木に傷をつける場所を示している。作業をするごとに、傷をつける位置は上へと移動していく。

伏見さんの「蔵漆」は、量産しない作家だからできることかもしれない。ただ、大量生産大量消費の時代が終焉を迎え、量から質へ、モノからコトへと転換した今、60年前に明漆会が志した漆器のあり方を再認識してみれば、工芸品は、ただ手仕事だからよい、というのではなく、つくり手の姿勢や思想が重要だと気づかされるはずだ。伏見さんは、早い時期からYouTubeで技法を公開し、蔵漆についてもFacebookで解説をしている。隠し立てしない、誰だって挑戦していい。それは伏見さんの基本姿勢。

「僕の仕事を明らかにすることで、誰かが受け継いでくれたらいいと思っているんです」

伏見さんの言葉は穏やかで、でも、内側にある漆への思いはふつふつと熱い。

YouTube

伏見漆工房  https://www.youtube.com/@fushimiurushikobo

伏見眞樹 ふしみ まき 伏見漆工房

1957年 横浜生まれ  
1978年 鎌倉彫訓練校に入校。彫刻・塗りを学ぶ 
1980年 同校卒業。鎌倉彫白日堂に彫り師として入門。2年後、塗りへ転向 
1984年 漆工・佐藤阡朗氏(長野県木曽郡)に師事。

1987年 独立、埼玉県東松山市に工房設立 
1991年 日本民芸館展、奨励賞受賞(梅文汁椀)

          埼玉県熊谷市にて初の個展以後、首都圏を中心に個展多数  
1994年 神奈川県葉山町に移転。首都圏を中心に個展多数 

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『J-style Utsuwa 私のうつわ練習帖』のこと https://craftweek.jp/column/70164 Sun, 10 Dec 2023 04:08:47 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=70164 工芸まわりの取材や編集をライフワークにします、と公言し、「今どき、工芸?」と上司たちに心配されながらも10年勤めた出版社を退職、フリーランスで仕事を始めてから四半世紀が過ぎてしまった。

そしてこの春、10冊目となる著書であると同時に、初めて「器」をテーマにした本を出版、実はまだ面映おもはゆい気持ちがつきまとう。

『J-style Utsuwa 私のうつわ練習帖』 田中敦子著
春陽堂書店/A5版/144ページ/2,200円+税(電子書籍版あり)写真:河内 彩

「器」をテーマにした書籍はさまざまあるが、このたびの本は、作家ものを主とした手持ちの器や生活道具を、形や素材、サイズ、用途などでカテゴライズし、それぞれのよさや歴史、今の暮らしに即した用途を綴ったもの。自分で調理したものやスーパーのお惣菜などを盛りつけるなどもして、暮らしの断片をちら見せしつつ、手仕事の器がある暮らしは豊かで楽しいよ、とメッセージする、そんな内容の自著に、内なる私が挙動不審になる。いいの? 大それたことをしてしまっていない? と。

きっとそれは、私自身が長く器にまつわる本や雑誌を愛読してきたからで、その末席に名を連ねることになろうとは……と狼狽うろたえているのだ。

北大路魯山人きたおおじろさんじん、白洲正子、向田邦子、辻嘉一つじかいち秦秀雄はたひでお、福森雅武、有元葉子、上野万梨子など、器にも料理にも目の利く方々の器美学や器づかいに憧れながら、それは天上界の出来事と思い続けてきた。休刊してしまったけれど、『季刊銀花』(文化出版局)や『月刊太陽』(平凡社)も、私にとっては優れた器や工芸品の魅力を厳かに伝道する天上界の雑誌だった。

そんな私が、なぜ器の本を? 

きっかけは、2020年の早春に始まったコロナ禍。正体の見えぬウイルスの蔓延まんえんを食い止めるために唯一できる策が外出制限であったことは、ついこの前のような、遠い昔のような。おかげで多くの人の活動がストップ。私もまた、ウェブ連載していた工芸作家取材に支障が出てしまった。

やれやれ、と思っていたら、担当編集のKさんから、「連載は一旦お休みして、その代わりに田中さんお手持ちの器で、ステイホーム(家ごもりですね)な日々の過ごし方を提案することなどできませんか」と、メールが届いた。

我が家は感染蔓延直前に引っ越ししたばかりで、住まいはまだ落ち着いていなかった。が、同時に、自分で器の梱包、開梱をしていたタイミングでもあったので、手持ちの器を把握できていたし、新しい生活環境の中、街中や遠方に行けないならば、とご近所探索をしていたりもしていた。だから、「わかりました、まずはできることを考えますね」と取り急ぎ返信して、今だからこそ楽しめることなど、器を絡めて考え始めると、これが思いがけず楽しい。器を出し、セッティングして、スマホであれこれ撮影、メモ的な文章とともにKさんに送信したところ、「面白いので、短期連載として、週一配信を4回しませんか」と提案が戻ってきた。

白磁の器は、扱いやすく料理を選り好みしない基本の食器。だからこそ、工業製品ではない、手仕事の魅力が感じられるものを選べば、シンプルながらも愛着ある器として日々楽しめる
上から時計回りに、白磁筒鉢・吉田直嗣 作 白磁中鉢・水垣千悦 作 六寸リム皿・吉田直嗣 作 にゅうめん鉢・設楽享良 作
写真 田中敦子

instagramで遊び気分の投稿をするのではない、雑誌の名を冠したウェブ記事として、器、スタイリング、料理、撮影、文章と1人何役もこなすなんて、非常時だからこそできることかな、と、不安よりも面白がる気持ちが先立って、さっそく進めることになる。

短期連載のテーマは4つ。

「2人で楽しく朝食を」。ついつい手抜きになる朝ごはんを、きちんと楽しくいただけるのはこの時こそ、という思いから。

「ランチとおやつをしっかりと」。時短ランチが当たり前だったから、もう少し気を使おう、と反省していたところだった。また、外出が制限されている時期だから、おやつに楽しみを見出したい、と工夫もしていた。

滋味豊かな汁物は、日々体調を整えるのに欠かせない。だからかお椀やスープカップが気になって仕方ない。浅鉢形にリングを付けたような持ち手、外側は手びねりの手跡が残るマットな化粧土仕上げが、シンプルなスープにひと味加えてくれる
スープ碗・石原祥充 作
写真 田中敦子

「身近な花を愛でる」。遠出せずとも楽しみはあるもの。庭、道端、土手などに目を向けて、雑草を摘んで花入れに飾る提案。

「リモートを楽しむ」。会議や取材、友人とのお茶や仲間との飲み会もパソコンの画面越しに。それだけでなく、エクササイズも、コンサート鑑賞も、映画だって。ならば、その場面にふさわしい器を持ち出し、彩りを添えよう……。

コロナ禍が深刻化して文化施設が臨時休業となり、支援のクラウドファンディングが始まった。私もささやかながら応援をすることに。その一つがミニシアターのオンライン映画鑑賞。自室のパソコンで映画を観始めた頃は、お酒を飲みながら楽しんでいたもの。好きで選んできた器が不安を和らげてくれたことを思い出す
ガラスボトル・三浦世津子 作 グラス・オールドバカラ 染付皿・林大輔 作
写真 田中敦子

タイムリーな記事だったためか評判は上々で、短期連載が月一回の連載となり、ほぼ毎月、我が家の器づかいを画像とともに綴ることに。そして、ある程度記事が溜まったころ、書籍化しませんか、という話が舞い込んで、そうして形になったのだった。

タイトルにJ-styleとあるのは、 J-POPが洋楽の影響をたっぷり受けた世代から生まれた日本の音楽であるように、器もまた、現代の欧米化した暮らしの中でフォルムも使い方も多様化している、そんなところからの発想。伝統的な日本の暮らしを根っこに持ちながらも、自由に使いこなしていいんじゃない? という思いをJに込めている。だが実際には、多くの人が安価な量産品の器でよしとしている、らしい。これだけ多くの器が職人や作家の手から生み出され、価値観の相違はあれど手に届く価格帯のものが多く揃っているのに、なんてもったいない、というのが私の偽らざる気持ち。今もある美しい手仕事を多くの人に伝えたい、そんな思いもたっぷり込めている。

これまで、様々なジャンルの工芸を取材。気になるものは見に行き、手の届くものは、なるべく使ってみたい、と購入してきた。もちろん、実際に暮らしの中で使うものとして。だからどうしたって「好み」が出てしまう。取材する立場としては中立的なプロでありたいと思うけれど、使い手としては自分流のアマチュア、でいい。でも、私なりの選択眼や使い方に、ある程度の普遍性があるならば、人様にお見せする価値はあるのかもしれない。

思い返せば、百貨店で手仕事のセレクト展プロデュースを10年以上続けたことで選び方や伝え方はある程度鍛えられたし、また、モノがもつ魅力を解釈して言葉で伝える術は、長年の仕事を通して身についている。おそらくそのあたりが、器本を出すにあたっての、ささやかな支えになった気がする。

ところで。

工芸と器は同義だと私は思っているのだけれど、どうやら少し違うらしい。これは、ある木工作家を取材して気づかされたこと。

彼の作品は、訳あって伐採した樹木を生木の状態でカットし、旋盤で削っている。その後、乾燥の過程で器の形が歪み、そのフォルムが味わいとなるのだが、実はこの方法は材をしっかり乾燥させて使う伝統工芸的な木工の世界と真逆の発想。だから生木を削って器をつくるなんて、工芸系に慣れ親しんだ人にとっては、「カラスは白い」と言われたような感覚だ。

けれど料理研究家やスタイリストなど、器そのものの味わいに注目する人にとっては、誤解を恐れずに言うならば、料理が映えるかどうか、コーディネートするときに美しいかどうかが判断基準の第一義になる。もちろん、気に入ったつくり手については深掘りだってするだろうけれど、まずはモノの存在感が重要。

この眼差しは、柳宗悦やなぎむねよしの『心偈こころうた』にある有名な「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」(見てから知れ、知ってから見るのではない、という意味)に通じていて、工芸はこうあるべき、と大上段に構える必要なんて実はまったくないと思っているし、私もまた、永遠の工芸初心者として好きと思える器を選んできて、これからもきっとそうあり続けるだろうと感じている。

弱いけれども好きな、お酒。そのせいか、目で楽しめる酒器に惹かれる。この組み合わせは、日本酒でもちょっとエキゾチックな味わいの古酒に合わせて
上から時計回りに、ガラスの注器長野史子 作 更紗(さらさ)花の色絵陶杯・升たか 作 金彩唐花陶漆酒杯・菱田賢治 作 蒔絵薔薇紋盃・山口浩美 作 漆丸盆・山本隆博 作
写真 田中敦子

SNSの進化と浸透で、多くの人に表現の場ができ、そして価値観はどんどんフラットになっている。最初に書いたように、かつては天上界の方々が迷える子羊たちを導いてくれたものだった。それはあらゆるジャンルにおいて……。でも今は、多くの人がインフルエンサーになる機会を有しているし、様々な投稿をチェックしながら自分なりに編集することも楽々できる。

私の『J-style Utsuwa 私のうつわ練習帖』も、紙媒体ではあるけれど、そんな時代に生み落とされたもののひとつなのかも、と思う。天上を見上げながら地上に生きる私が、時間をかけて買い集め使ってきた器を、今の時代に照らしながら、敷居を低く、けれど思いは熱く、日々使う楽しみを提案するのだ。

選んできた器や生活雑貨は、どれも誠実な仕事から生まれたもので、控えめだけれど美しく、月並みな料理や名もなき料理、出来合いのお惣菜を引き立ててくれる。長く使って愛着が増し、住まう空間に置いてあって楽しいもの。

モノの時代からコトの時代へ、と言われて久しいものの、充実したコトを味わうには美しい道具立ては欠かせないと思う。私の場合、仕事柄もあって溢れ気味なくらい器を持っている。そのすべてが必要というわけではなく、こんなものがあったらいいな、と選ぶヒントにしていただければうれしい限りだ。

江戸結桶(ゆいおけ)の飯櫃(めしびつ)(桶栄 作)、竹の茶碗籠(瀬司恵美 作)、土鍋(永谷園 作)、鉄瓶(釜定 作)など、現代のつくり手による手仕事の台所道具は、手ごわいようでいて、使い始めるとその長所と存在感に惚れ込んでしまう。しかも使うほどに味わいが増し、修理も可能。長い目で見れば賢い買い物だと実感している
写真 河内 彩

安いものを消費するのではなく美しいものを長く使い、暮らしを彩ることは、これからの私たちが目指すべき豊かさで、そこに手仕事の、工芸の、確かな器が介在する余地はたっぷりある。一冊の本に込めた思いは語りつくせないけれど、まずは手にとって眺めていただけたなら。こんな器があるのか、使ってみたいな、というところからのスタートでもいいし、そろそろ買い換えようかな、というときの判断材料にしていただいてもいい。

割れても惜しくない器ではなく、大切に使いたくなる器を。そう考える生活者を増やしたい。ひとりひとりのJ-style Utsuwaを楽しめる世の中になったらどんなに素敵だろう。私は今のところ、そんな夢想をしながら、連載を継続している。

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江戸からかみの伝統技法を受け継ぎ伝えるために——東京松屋の試み https://craftweek.jp/column/70306 Sun, 10 Dec 2023 04:02:43 +0000 https://craftweek.jp/?post_type=column&p=70306 工芸の作品には、固有の美しさを支える物語があります。その物語が次世代の形を導き出していくのではないでしょうか。

手と心が生み出す見事な仕事を訪ねながら、工芸の現在形を伝えたいと思います。

江戸時代からの歴史を持つ東京の手仕事を、最初に取材したのは20数年前のこと。『江戸の手わざ ちゃんとした人、ちゃんとした物』(文化出版局、2001年)のためだった。つい先日のようにも思えるけれど、取材した職人の多くは、鬼籍に入られてしまった。老職人の方々からは戦前、戦中の話を伺えて貴重な経験となったし、時に技術を継承する次世代の姿もあって、心強く思ったものだ。

頑固一徹、技は盗め、勘と経験、などはステロタイプの職人ワードだが、現代を生きる職人はもっとしなやかで、その素顔は古い職人像とは異なることを肌で感じる機会となった。そして、当時すでに深刻になっていた後継者問題について、取材を通して気づかされたのは、徒弟制度や家内工業を後継するという従来の形にとらわれなくてもいいのではないか、ということだった。

東京松屋のショールーム。内装用の和紙を多く扱うとともに、江戸からかみの版元として、様々な加工見本や使用例を揃えている。ここは2階で、1階には江戸からかみを使った文房具や調度品を取り揃えたショップがある

東京・東上野にある和紙問屋の老舗、東京松屋(1690年創業)は、装飾和紙の版元でもあり、消えかけていた伝統的な唐紙を再興させた立役者である。平成11年(1999)には「江戸からかみ」として国指定伝統的工芸品に指定されて認知度が高まった。メディアに取り上げられるようになり、建築家も注目するところとなる。ふすまや壁紙にとどまらない内装材として用途が高まり、文房具類や照明などにも用いられるように。 

はたから見れば目覚ましい展開なのだけれど、ここ10年ほどの間に職人の高齢化や廃業など、先行き安泰とはいかない状況に。このままでは江戸からかみがまた消えてしまう。なんとか現状打破して技術を未来につなぐため、東京松屋は大きな決断をすることになった。それは、職人に外注するのではなく、自社工房を持ちそこで制作するという試み。アウトソーシングからインソーシングへ。かつて多くあったそのスタイルを、アップデートする形で採用したのだ。

江戸からかみの歴史と現在

江戸からかみは京都で発展した木版りの装飾技法(京からかみ)を主に、型紙を使う更紗さらさ、刷毛を工夫して縞を描く丁子ちょうじ引き、金銀の砂子すなごはくできらびやかに装飾を施すものなどがある。「からかみ」は「唐紙」と書く。唐物や唐様など、大陸由来の技法や様式に「唐」の文字が当てられる例にもれず、北宋時代の中国から舶来した美しい紙は、平安貴族たちの間で「からのかみ」と呼ばれて珍重され、やがて国内でも生産が始まる。殿上人てんじょうびとは、和歌や写経にきらびやかな装飾和紙「料紙」を用いたが、からかみもまたそのひとつに含まれる。胡粉ごふん雲母きらを用いて吉祥文様を木版摺りする雅なからかみは、やがて襖や壁など室内装飾にも取り入れられて、京都から日本各地へ広まっていったという。

江戸からかみは、江戸幕府開闢かいびゃく以来、武家屋敷や商家で用いられる襖紙として発展していく。しかし、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど頻繁に火事があった江戸の町では、家が焼け落ちるだけでなく、からかみの木版も焼失の憂き目に遭いやすく、新しい注文に生産が追いつかない。そこでかみしもや着物、浴衣などの型染めに使われていた渋型紙に注目、木版の代替品としての型紙で単色または多色摺りする更紗技法が登場することになる。他に、縞を刷毛染めしてから紙を揉んで味わいを深める丁子引き、平安時代の料紙にも見られる金銀箔や砂子で抽象文様を施す技法も採用され、時に複数の技法を併用するなどもしながら、江戸ならではの「からかみ」を展開していくことになる。

江戸時代に多く使われていた唐紙用の小判の版木。色づかいにより、印象がガラリと変わる

伝統的なからかみは、小判と呼ばれる約30×45㎝の和紙に摺ったものを12枚貼り合わせる。江戸中期には「享保千型」と呼ばれるほどに文様のバリエーションが豊富だったという。しかし、こうした版木のほとんどは大正12年(1923)の関東大震災で焼けてしまった。折しも、ふすま紙1枚サイズの3×6判(さぶろくばん、91×182㎝)と呼ばれる大判和紙がけるようになり、それに合わせて新たに版木を彫ることになる。12枚の紙を貼り合わせるのではなく、一枚の紙に版木や型紙を送って文様をリピートする方法へと切り替わり、以来それが江戸のからかみスタイルとなっていく。これにより文様は大きく大らかになった。余白も生まれる。そのさっぱりとした感じが、江戸、そして東京の好みに通じている。

ショールーム内にある襖の実用例。右は小判の木版摺12枚を貼り合わせたもの。
左は3×6判の襖サイズの和紙に版木を送ったもの。下地をクラデーションにするなど、大判ならではの加工ができるのも江戸からかみの面白さだ。ちなみに中央は、桂離宮・松琴亭の襖を写したもので、藍染めした和紙を溶かし、再度漉いた「漉き返し」の和紙を用いて石畳文様にしている
箔紙の上に木版雲母摺りを施した蔦文様の江戸からかみ。版木を送ってつないでいく繰り返し文様だが、伸びやかに広がるかに見える

しかし、江戸からかみの受難は続く。太平洋戦争時の東京大空襲により、職人たちが多く住まう東京下町は灰燼かいじんに帰し、版木や型紙の多くを失ってしまう。戦後の復興期から高度成長期には、襖紙は安価な工業製品に凌駕りょうがされて、東京松屋18代目の伴利兵衛さんが家業を受け継いだ昭和38年(1963)には、ほとんどの商品が機械による量産品となっていたという。利兵衛さんの長女であり、松屋ショールーム商品企画・広報を担当する河野綾子さんのお話では、「父は家に残っていた昔の見本帖を見て、この歴史ある美しい装飾和紙をなんとか復興させたいと、技術を持っていた職人さんたちに声を掛け、版木や型紙を復刻。30年の年月をかけて新しい見本帖を完成させたのが平成4年(1992)のことでした」とのこと。そこからまた30年の時が過ぎた今、新たな変革の時を迎えたのである。

唐紙師と更紗師を兼ねた職人によるインソーシング

先にも説明したとおり、江戸からかみは、木版、型紙、丁子引き、金銀箔や砂子装飾があり、木版、丁子引きを主に担うのが唐紙師、型紙による仕事は更紗師、金銀箔、砂子での装飾は砂子師と分業制になっている。20数年前、それぞれを担当する工房を4軒取材したが、10年ほど前に更紗師の工房が廃業した。これをきっかけに、東京松屋では江戸からかみの将来を考え、自社制作へとシフトし始めたという。担当しているスタッフは現在5名。リーダー的な存在の高杉裕也さんは、入社して18年。「入社した当時は、商品制作部門でからかみを使った照明などを担当していました」。まだまだ江戸からかみに携わる職人たちが健在な時代だった。

更紗師による渋型紙の「江戸からかみ」。すっきりとシンプルな梅文様だが、数枚の型紙を使い、染め重ねている。文様の際(きわ)がくっきり立ち上がっているのは型紙ならでは

高杉さんに転機が訪れたのは入社して5年たった頃。表具組合の訓練校に通うことになったのだ。「当時、表具を学びたいという志望者が足りなくて、東京松屋にも声が掛かり私が行くことになったんです」。和紙を扱う表具が、仕事の役に立つことは間違いない。高杉さんは襖、障子などの建具類や掛け軸を仕立てるための技術全般を、訓練校で学んだという。

東京松屋の自社工房では、江戸からかみの技法すべてに対応できる体制を整備しつつある。その中で高杉さんは、唐紙師の仕事である木版摺りと、更紗師の仕事である型紙染めの技術を担っている(砂子師の仕事は伝統工芸士の秋田英男さんが担当。また別の機会にご紹介したい)。その仕事ぶりについて河野さんは「ていねいできれいな仕上がりなんです。あとは作業効率をどこまで上げられるかなのですが、お客さまのためには、仕上がりの良さが第一です」ときっぱり言う。現在は、かつて2軒あった唐紙師の工房のひとつが廃業、丁子引きの仕事を担当している別の工房では先代が亡くなり、将来のことを考えた当主は、高杉さんに技術指導を始めているという。3軒の工房が分担していた仕事を、自社工房で一手に引き受けることになったのだ。負担も責任も大きいが、誰かが技術をマスターしていれば、また次の世代につなげることができる。0と1の大きな違いは、伝統工芸の現場で常々感じてきたことだが、今、高杉さんら自社工房スタッフは、その覚悟を胸に仕事をしているのだろう。

ここで、高杉さんたちが手がける木版摺りの仕事と、型紙を使う更紗の仕事をご紹介しよう。過去の記録や職人からの指導、独自の工夫で、江戸からかみに取り組んでいる。

受け継ぐ技法1 唐紙師の仕事

木版雲母摺りの仕事に使われる道具。丸い輪に布を張ったものは篩(ふるい)で、右はフランス刺繍の枠を加工したもの

版木は襖紙サイズである 3×6判越前和紙の幅に合わせた大判の版木。それを固定し、紙を送るようにして模様を摺る。「一枚板はどうしても伸縮があり反ったりもするので、送りの継ぎ目でつなげる文様だとずれやすいんです。なので、文様をつなげる必要のないデザインになってきています」。桜材や桂材が使われてきたが、大判の版木が取れる樹齢の材は激減している。「今後は、接ぎ板を使うことも考えなくてはいけないかもしれません」。木材調達の問題は、さまざまな工芸ジャンル共通の悩みである。

松文様の木版雲母(きら)摺りに使われた具材。バットに入った緑色は水干(すいひ)絵具の「黄土」と「古代緑青」を混ぜている。中皿に入った網目状のものは布海苔(ふのり)、手前の飴色の棒は膠(にかわ)。小皿に入っているのは、左が雲母、右が姫糊

摺りの「きら」とはケイ酸塩鉱物である雲母うんもを粉末状にしたもので、雲母摺りの木版唐紙の文様が光の加減で見え隠れするのは、ひとえに雲母の力なのだ。これに日本画にも使われる水干すいひ絵具で色調整をする。ただ、「きら」も水干絵具も不溶性で、特に「きら」は沈みやすいため、煮溶かした布海苔ふのりを加えてまんべんなく散るよう混ぜ合わせる。さらににかわと姫糊(米を煮てつくるでんぷん糊)を。これにより接着力のある絵具になる。膠だけでなく姫糊を加えることで接着力が高まるという。この調合は気温や湿度に応じて加減が必要。高杉さんは配合の数値を記録し、経験値を高めている。

木版に絵具を置くため、平刷毛で篩に具材を塗る。篩は、先輩唐紙師から譲り受けた貴重な道具。かなり使い込まれているが、まだまだ現役
彫刻された版木の上に具材をのせる。昔ながらの唐紙技法で、版木と篩に張った布の面を合わせるように当てていく。具材を無駄なく均質に塗る知恵だ

調合した具材は薄い絹布を張ったふるいに刷毛で塗り、版木の上に静かにのせる。以前より、篩は入手が難しい道具のひとつとなっている。代用品はないかと思いを巡らせた高杉さんが、布を張れる丸いものをと考えたときに、ふとフランス刺繍の丸枠に思い当たった。文化人類学でいうところのブリコラージュ*である。

現在は譲り受けた篩と併用している。篩に張る生地は、文様の細かさに合わせて変えるという。細かい文様ほど繊細で薄い生地が求められるのだ。

*ブリコラージュ:その場で手に入る限られた道具屋材料を用いて、ものをつくること。

作業中の高杉裕也さん。版木の上に和紙をのせ、手のひらで紙を撫でるようにして摺る

そしていよいよ摺りに入る。とても優しい動きだ。具材を置いた版木の上に和紙を載せて、両手のひらで撫でるかのよう。スイスイと泳ぐような腕の動きから「泳ぎ撫で」とも呼ばれるこの作業のポイントは、手のひらが滑りやすくなっていることだそうだ。以前取材した職人さんは、時折手のひらを頬に当てて皮膚の脂で湿らせていた。高杉さんはどうしているのかと尋ねたところ、イボタろうをエプロンのポケットに潜ませているという。イボタ蝋とは、イボタノキに寄生するイボタカイガラムシが分泌する蝋を精製した天然蝋で、掛け軸の滑りをよくするために使われたりする。表具の仕事を学んだ知恵が、こんなところで顔をのぞかせる。

版木から和紙を持ち上げると、ふわりと文様が現れる。機械印刷では生み得ない、微妙なかすれやムラが、具材の醸し出す味わいを深めている。

動画でもご紹介しよう。

受け継ぐ技法2 更紗師の仕事

更紗師が使う、渋型紙と丸刷毛
「江戸からかみ」の大判型紙は、2人で作業する。左は東京松屋所属の職人の1人である森田朝子さん。左右から中央に向かって具材を丸刷毛で塗っていく
型紙の厚みにより具材の硬さを変えていく。厚みのある型紙の場合は硬めに調整。そうしないと文様が流れてしまうからだ

江戸小紋や長板中形ながいたちゅうがた、和更紗、紅型びんがたなど、和服に用いられてきた渋紙(和紙を貼り合わせ柿渋を塗って燻煙くんえん乾燥させたもの)に文様を彫り抜いた型紙を使う更紗師の仕事は、複数枚の型紙を使った多色染めが可能だが、ここでは単色で染めてからぼかしを入れる技法を拝見。使われる型紙は、版木同様に3×6判の和紙に合わせた幅の大判。2人同時に左右から作業を進める。作業には、鹿毛の丸刷毛を使う。これもなくなりつつある道具で、京都から取り寄せているという。

1人が筆の先で絵具を置いたら、もう1人が水を含ませた丸刷毛でぼかしていく
ひとつの花の中に淡く紅色をにじませる
「匂う」という表現がふさわしいぼかし表現

ぼかしの作業も2人で行う。1人がポツンと筆で絵具をきわに置いたら、もう1人が水刷毛で絵具を薄めるようにして、すでに型染めした花びらにぼかし重ねる。ほんのり赤く色づく、優しい表情に見入ってしまう。どこをぼかしていくかは職人の感覚で決めるという。

現在高杉さんたちが使っている型紙は、廃業した工房から東京松屋が買い取ったもので、そろそろ傷みが出てきている。すべてのモノと同様に使うことで長持ちもするのだが、そもそもが消耗品のため限界はある。それでも、「切れたところは和紙テープなどで直して使っています」と、便利な文房具で対処している。

以前、更紗師の仕事を拝見した際、職人さんが型紙を湿らせるため、水の入った一升瓶を口に含み、ぷわっと霧吹きをしていた。子どもの頃、畳屋さんが同じように霧吹きするのを見ほれた経験があるため、懐かしく眺めていたけれども、今は不衛生と敬遠される。「なので、噴霧器を使っています」と高杉さん。渋紙ならではの作業なのだが、その渋紙も生産量が激減していて、今後合成紙に取って代わっていくだろうとのことで、「そうなれば霧吹きもいらなくなるんですよね」。

渋型紙での桜文様に使った具材。中央の中皿は胡粉を溶いたもの。その左下は雲母。これでまず花びらを染めている。手前の飴色の棒は木版でも登場した膠(にかわ)。左のプラスチックケースに入っているのはこんにゃく糊。ぼかしには水干絵具の「緋赤」と「黄土」を混ぜた色で

型紙技法の文様は、滑らかでくっきり立ち上がる。これは具材に秘密がある。木版同様、水干絵具を使うが、加える糊は膠とこんにゃく糊。こんにゃく糊は粘りがあるため、乾くと表面が平らに整うのだ

動画でもご紹介しよう。

表具の技術を生かしながら伝統技法を更新

ところで、木版、更紗に共通する仕事がある。まず3×6判の和紙に、刷毛を使って顔料や染料で下染めする「具引き」の作業を施し乾かす。この紙に加飾していくのだけれど、作業前に全体を湿らす必要がある。紙を平らにするためと、具材をしっかり定着させるためだ。高杉さんは、水を含ませた刷毛で湿らせた紙を丸めて、ビニール袋に入れる。なぜだろうかと尋ねたところ、「こうすると湿りムラがなくなるんです。刷毛で湿気を入れても、入りすぎているところと乾いているところの差が出るんですけど、ビニールの中に入れると、この中で湿気がこもって満遍なく湿気が行き渡り、全体が均一になるんです」。この工夫は、表具の訓練校で学んだという。「障子の紙って、さんにだけ糊をつけて貼りますよね。だから障子紙が乾いている状態だとボワボワして貼りにくい。なので霧を吹いたり、水刷毛したり、湿りを入れてやるんです。午前中に湿りを入れてビニール袋に入れておくと、中で馴染んでくれるので、午後に使うという流れです。その応用ですね」。

水を含ませた幅広刷毛で和紙全体を湿らせる作業

工芸の現場では、ビニールやプラスチックが少なからず仕事を助けている。かつて使われていた自然素材の用具よりも作業効率がいいからだ。すべて昔どおりに戻す必要はないし、そこまで求めるのは無意味なことだとも思う。が、ではビニール袋を用いなかったかつての唐紙師や更紗師はどうしていたのかといえば、「タバコ一服の時間を置いてから、加飾の作業を始めたようです」との答え。昔気質の職人の現場は、休憩時間にタバコが欠かせなかった。職人仕事の今昔である。

東京松屋のスタッフが集合。企画や販売など、伝統工芸に携わる人たちも世代交代している

東京松屋

所在地:
〒110-0015 東京都台東区東上野6-1-3 東京松屋UNITY
TEL(03)3842-3785/FAX(03)3842-3820
営業時間:9:00~17:00(日曜・祝日定休日)

https://www.tokyomatsuya.co.jp

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四代田辺竹雲斎が挑みつづける竹工芸の未来 https://craftweek.jp/column/69222 Sat, 19 Aug 2023 07:31:21 +0000 https://japancraftweek.thechords.jp/?post_type=column&p=69222 工芸の作品には、固有の美しさを支える物語があります。その物語が次世代の形を導き出していくのではないでしょうか。

手と心が生み出す見事な仕事を訪ねながら、工芸の現在形を伝えたいと思います。

竹インスタレーションの発するメッセージ

龍や大蛇のごとく、うねり、広がり、這い、立ちのぼる。はるかにそびえる竹の集合体は、竹ひごの尽きたその先にまでつづくような生命力に満ち、見る人の想像力を圧倒してしまう。

四代田辺竹雲斎さんのインスタレーションは、竹工芸の枠を超え、アートとして世界を魅了し、竹という東洋的な素材の新たな可能性をメッセージする。このインスタレーションの特異性は、伝統的な竹工芸の家に生まれた竹雲斎さんが、その伝統を受け継ぐ中で試行錯誤し、清新な竹工芸作品を制作する一方で、伝統の文脈から外れることなく、家伝の技法を駆使して一本一本手作業で竹を編みながら、驚くべき竹のインスタレーションへと発展させた、その力量と創造性にあると思う。

四代田辺竹雲斎 たなべ ちくうんさい

1973年大阪府堺市に三代田辺竹雲斎の次男として生まれる。 1999年東京藝術大学 美術学部彫刻科卒業後、父・三代竹雲斎に師事。代々の伝統技術を受け継ぎ、伝統工芸の世界で高い評価を得る一方、竹の大型インスタレーションを海外の美術館などで発表し続けている。 2017年四代竹雲斎を襲名 

サンフランシスコ・アジア美術館にてのインスタレーション作品『CONNECTION』 2019
©渞忠之
フランス国立ギメ美術館でのインスタレーション『五大』の準備風景 2016
©渞忠之

竹編みの技術だけでメガスケールのオブジェを実現、その造形は常に宇宙や生命と繋がる東洋哲学的テーマと共にある。が、メッセージはそこにとどまっていない。

「私たち竹を愛する者としては、竹を一つの道具として使い、消費することは避けたいんです。愛情を込めて一本一本小刀で削ってつくる竹ひごを、なんとか循環していこうと考えました」

そこで、使用した竹ひごを会期終了後に一本ずつ解体、傷んでしまった竹があれば取り除く。それらをまた次のオブジェに用いて、足りない分は新しいものを補充する。これが竹雲斎さんのインスタレーションをより現代的に位置づけている。竹ひごという材でありながら、生命細胞のような循環が行われているのだから。自然素材を用い、手作業で構成し、その素材を循環させていく。アートとして縦横無尽に展開しながら、そこに宿るのは竹への愛であり、竹工芸の家で育った人の純粋な心持ちなのだ。

現在、竹工芸が盛んな土地は、大分と栃木。いずれも材料となる竹の産地としても知られる。竹雲斎さんの工房がある大阪・堺もまた、かつては竹の産地を備えた竹工芸の地だったという。ただ、堺に竹工芸がおこった背景には、貿易都市として栄えた自治都市の歴史が大きく影響している。江戸中期以降、大阪商人を中心に隆盛した文人文化の中枢を担う煎茶道において、唐物花籃からものはなかごが用いられたことが竹工芸発展の端緒となったのだ。

煎茶道は抹茶道と同様に中国から伝わった文化だが、大阪で煎茶が広まったのには理由がある。桃山から江戸時代はじめに確立した茶道が形式化していく中で、煎茶の持つ風通しのよさと中国の文人文化への憧れが、大阪商人の気風に合ったのだ。そんな煎茶の世界において竹の書画や道具が重用されたのは、竹の特性にあるという。しなやかにして強靭、つ凜とした佇まいとは対照的に、中は空洞で淡々としている。その姿が中国文人の理想であり、画題や文様として喜ばれたという。中国文人に憧れた煎茶人は当然追随、中でも中国の精緻な竹編みの花籃は「唐物」と呼ばれて珍重された。「当時の日本には細かい竹編がなかったので、その素晴らしい細工を真似てつくろうと。その中心となったのが堺だったんです」。

つまり、堺の竹工芸は、煎茶人の要望に応じて生まれた「都市型の工芸」という側面がある。そして、初代竹雲斎はいかにも都市型の工芸人らしく、竹工芸の名匠であるばかりでなく清風青山流なる花道の家元でもあり、文人と盛んに交流、教養を高めたという。求心的に制作する一方で遠心的に世界を広げる、その両義性を矛盾なく実現するという新しい工芸家の姿を示した初代のありようは代々に受け継がれ、結果、大きく花開いたのが四代のインスタレーションなのだ。国内外で高い評価を得、展覧会オファーは引きも切らず、竹雲斎さんは快進撃を続けている。

かつて堺に多くあった竹工芸の家は、世の中の浮沈に翻弄されて消えていった。現在、田辺家一軒になった状況下で、何としても家伝を伝えていきたいと願う強い思いが竹雲斎さんにはある。「伝統は挑戦なり」の家訓を胸に刻み、ともすれば足かせになる伝統をスプリングボードに変え、工芸をアートの域に引き上げた。そこに込められたメッセージは、多くの工芸家をも力づけるものではないだろうか。

ものづくりが抱える問題と未来への道すじ

ただ、現代の工芸が背負う宿命を、竹雲斎さんもまた切実に感じている。材料調達への不安である。堺の竹工芸が竹材調達を近隣に頼れなくなったのは、太平洋戦争後。空襲により焦土と化した堺の復興と共に竹工芸は息を吹き返したが、材料となる竹は堺港に注ぐ大和川の整備によりことごとく伐採され、以降、日本各地から竹を取り寄せる方向へと切り替えることになる。かつて竹は、建材から農具まで人々の暮らしをあまねく支える存在で、質のいい竹材の産地が日本各地に点在、それらが堺の竹工芸を支えてきた。

その竹の産地が危機を迎えている。かつて竹が担った役割をプラスチック製品などが代替して久しい今、各地の竹林は供給先を失い、放置され、数少ない担い手は高齢化して、竹工芸に使う良質な材料を調達できる竹林の存続が難しくなっているのだ。「これからは工房として技術を継承するだけでなく、素材である竹を育てる竹林の保全にも積極的に関わっていくことを考えています」。

高知の竹林にて
©渞忠之

現在、竹雲斎さんの工房では、七ヶ所の竹産地から材を取り寄せている。鹿児島・福岡・大分・滋賀からは日本の固有種である真竹まだけを。強靭で繊維が細かく、しなやかだという。和歌山からは黒竹くろちく。黒みが強く、海風が当たることでより黒くなる竹だ。高知からは虎竹とらたけ。熱を加え磨き上げると虎模様を思わせる斑が現れる。高知県須崎市安和の一部の竹林にしか育成しない。そして鳥取からは鳳尾竹ほうびちく。古くから自生する根曲がり竹。こうした材の未来を考え、数年前より様々な形で竹林保全や再生に取り組んでいるという。産地を訪問して調査を行い、その現状を知ること。産地でワークショップを行うこと。後継者問題を抱える産地から、まとまった数を定期的に仕入れること。生産者とウェビナーで対談し、海外のコレクターやキュレーターに向けて竹材の現状を知ってもらうこと。制作だけでも多忙な竹雲斎さんがアクションを起こすのは、並大抵なことではない。けれど日本の工芸全般が、将来的に継続していけるかどうかの瀬戸際にあり、個人が動くしかない状況であることを竹雲斎さんは痛切に感じている。

「大量に竹材を使うインスタレーションは、竹林再生の要になると思うんです」と、竹雲斎さんは考える。さらに、竹材を使用したビルを実現できれば竹の使用量は格段に増え、結果、竹林を安定的に管理できるようになる。世界的なトップメゾンであるロエベと契約を結んだことで、今後、様々な構想が現実となっていくのではないか。

今、竹雲斎さんの工房では10人を超える弟子が修業している。彼らは免許制によって確かな技術を身につけていく。「私のところは時期を区切って免許皆伝するんです。3年で初伝、5年で中伝、7年で奥伝、10年で皆伝。3年毎に試験し、合格するごとに正式な儀式を行います。これを経て、皆すごくステップアップするんです」。竹雲斎さんは今後も少しずつ弟子の数を増やしていく計画だという。また、3人の子どもたちもインスタレーションやワークショップに関わりながら、成長している最中だ。彼らの時代がやってきたとき、そこからさらに先へと続く竹工芸のために、竹雲斎さんは奮闘の日々を送っている。

©渞忠之

四代田辺竹雲斎 公式サイト
https://chikuunsai.com

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