日本をめくる 第6回

島谷弘幸さん

絵は読み、書は見る

このシリーズでは、海外から見た日本文化について、さまざまな分野のプロフェッショナルに語っていただきます。これまでの出版活動を通じて出会った人々です。

伝統や文化の表層を一皮めくり、その先に未知の空間が広がることを期待しつつ……。


島谷弘幸
皇居三の丸尚蔵館 館長
しまたに・ひろゆき 1953年、岡山県生まれ。東京教育大学卒業。84年より東京国立博物館に勤務し、文化財部長、学芸研究部長、副館長を経て、2015年に九州国立博物館長。21年に国立文化財機構理事長に就任し、2023年10月より現職。『料紙と書』『東京国立博物館の名品でたどる書の美』など著書多数。趣味はテニス、囲碁。

2023年10月に、宮内庁所管の「三の丸尚蔵館」が国立文化財機構に移管され、同年11月3日に「皇居三の丸尚蔵館」として開館した。その初代館長に就任したのが、前九州国立博物館長の島谷弘幸さんである。2005年に開館した九州国立博物館は、日本におけるアジア文化の重要な窓口であった九州の地理的背景を踏まえて、歴史系博物館として設立された。開館から10年目に東京国立博物館から二代目館長に抜擢された島谷さんは、それまでの経験を活かし、「魅せる博物館」へと舵を切った。保存収集・研究の重要性を理解しながらも、文化財の活用と魅力の公開に重きをおく島谷さんに、ご専門の「書」にスポットをあてながら、日本文化の現在地を語っていただいた。

出会い

私が初めてお会いしたのは、2012年のことである。当時の島谷さんは、東京国立博物館の学芸研究部長として、企画展ばかりが脚光を浴びるなかでコレクション展示を見直し、来館者を劇的に増やす成果をあげ、その次の「改革」として、12万点にのぼる収蔵品のアーカイブを構築する作業に着手されていた。この時作品撮影を担当していたのが、長年交流のある写真家の橋本禎郎氏で、彼から紹介されたのが最初である。

 初対面にもかかわらず話がはずんだのは、島谷さんの社交的な人柄に負うところが大きいが、島谷さんが「師」と仰ぐ古筆学者の小松茂美氏と私の父が、旧制中学の同級生であったという偶然も一助となった。小松茂美氏は、研究の集大成となった「平家納経へいけのうきょう」(国宝、厳島神社蔵)をはじめ、書のもつ美術史的価値と歴史的価値を等しく扱い、学問体系のなかに位置づけたことで知られる。その思想は先に述べた島谷さんの「魅せる博物館」につながると、密かに思っている。

 そして、この出会いがきっかけで、展示ではついつい前を通りすぎてしまっていた「書」に、関心を抱くようになった。それは島谷さんの魔法の一言によるもので、そのことは後で明らかにしたい。

平安時代の書に注がれる熱視線

 最近、大河ドラマの影響で平安時代の文化や社会に関心が集まっている。主人公が紫式部なので、いわゆる「女流文学」をめぐる背景も『源氏物語』誕生の布石として描かれ、なかでも物語の要所で出てくる和歌は、貴族の優雅な営みの象徴となっている。

 また、世の関心は貴族男性が書いた日記にもおよび、藤原道長の『御堂関白記みどうかんぱくき』をはじめ、藤原行成ゆきなり/こうぜいの『権記ごんき』、藤原実資さねすけの『小右記しょううき』は、読みどころを抜粋した文庫本の売れゆきが好調で、『小右記』は昨夏刊行されたばかりの文庫本がすでに1万部を超えるという。これは、道長・頼通よりみちによって摂関政治が最盛期を迎えた時代にあって、宮中の政務や儀式の様子を60年以上にわたり詳細に綴った日記で、道長の有名な歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の出典としても知られる。ドラマには、筆者の実資を演じる秋山竜次が、ぶつぶつと愚痴を言いながら日記をしたためるシーンが出てくる。

国宝「白氏詩巻」
藤原行成 筆 平安時代・寛仁2年(1018) 東京国立博物館蔵
白居易の詩集『白氏文集』の流行を受けて、藤原行成が書き写されたもの。8篇の詩を、色変わりの美しい料紙に美しく明るい書風で書き進めている。紙背の継ぎ目の花押から伏見天皇が愛玩されたことがわかる。
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

「書」の見方と身体性

 もうひとりの藤原行成は、ドラマでは少々気の弱い優しい人物として描かれているが、こちらは三跡のひとり、「和様の書」を確立したスーパースターで、国宝「白氏詩巻」(1018年、東京国立博物館蔵)をはじめ、自筆の書が多く残されている。皇居三の丸尚蔵館が収蔵し、国宝に指定された「雲紙本和漢朗詠集くもがみぼんわかんろうえいしゅう」は、ドラマでは世渡り上手の役を担う藤原公任きんとうがまとめた歌集で、行成の筆と伝えられている。皇居三の丸尚蔵館開館記念展では、雲をき込んだ料紙りょうしと書が織りなす絵画的な美しさを一目見ようと、多くの人が書を取り囲んでいた。

 しかし現代社会においては、文字を書く行為はキーボードを打つ、あるいは指でフリックする「操作」に変わってしまい、文字から身体の痕跡が消しされて均質なものになってしまった。一方、書には墨の濃淡や文字の軌跡で、書いた人の心理状態や、その書がどういう目的で書かれたものなのかなど、さまざまな情報が読み取れる。

 このたび「雲紙本和漢朗詠集」も展示された開館記念展で島谷館長にお会いする機会にめぐまれたので、書の見方や「書く」ことの本質についてお話を伺った。

Q1.「書を見る」とは?

島谷弘幸

筆で書かれた文字、人間性が表現される文字をアートとして見ていく習慣をつけておけば、書の鑑賞の幅は広がっていきます。現代の書壇を見ていると自分のためだけに書を書いていて、他の人に向けて書いていない。展覧会にいくと大きな作品ばかりで、手元に置いて鑑賞できるサイズではない。そこで、お付き合いのある書家の方々には小さな作品を書いてくださいと頼んでいます。

 色紙を一回り大きくしたくらいの作品を書いて、書を扱うギャラリーで一般の人でも手の届く金額で販売できれば、書を自宅やオフィスなど身近に置くことができる。そうすれば敢えて鑑賞しようとしなくても、常に目に入るので書を見る目が自然に養われます。

 そして、書を選ぶときは自分の感性で構わない。書の知識などあれこれ気にせず、好き嫌いで選ぶ。それが「書を見る」の意味です。なぜこの書が好きなのかについて考えてみれば、形であったり、線質であったり、書のいろいろな要素が見えてきます。

 書において、形と線質のふたつは最も重要な要素です。歴代の書家が言うには、なかでも一番は線質で、二番が造形。造形は100枚書けばいくつかはある程度よいものが書けるけど、線は100枚書いてもよくはならない。日々の鍛錬の積み重ねで生まれると言います。

 ただ、それを言うと鑑賞のハードルが高くなるので、最初は「好きか嫌いか」でよいのです。そのうえで、なぜ自分はこの書が好きなんだろうと考えてみると、線がよかったり、造形に惹かれていたりと、自分なりの着眼点が見てきます。

国宝「雲紙本和漢朗詠集」 巻下より「恋」~「白」
伝 藤原行成 平安時代(11世紀) 紙本墨書 皇居三の丸尚蔵館収蔵
藤原公任が撰述し、娘婿となる藤原教通(道長の五男)への引き出物として、藤原行成の筆で書かれたといわれる。料紙には一紙ごとに斜めに藍色の雲形が配されており、その斬新さは平安朝の古筆でも秀逸。

Q2. 自分の好みを知ることから?

島谷弘幸

「好きか嫌いか」を考えるうちに、墨の色や濃淡などに目がいくようになります。墨にも色の違いがあって、茶墨ちゃぼくもあれば、青墨せいぼくもある。また、全体のバランス感覚として上手に文字が配置されているか、平たく言えば余白も書の重要な要素です。

 「余白」は「余った白」と書きますが、書にとっては「必要な白」で、古くは、深山龍洞みやまりゅうどう先生(1903〜80)、今なら井茂圭洞いしげけいどう先生(1936〜)などが、「よはく」の代わりに「ようはく」という言葉を使われています。

 文字と文字との距離感は、線質や筆力の良し悪しによって決まります。線どうしが離れていても美しいか、それとも反対に間が持たないか──。芝居で言えば、うまい役者同士は離れていても響き合うのに似ています。そのため、優れた書の配置をそっくり真似ても、線質や筆力が違えばそのままの余白の美は生まれない。そういうことが、書を手元に置いて見ることで、徐々に感覚でわかるようになります。

 墨の色味だけでなく、潤渇についてもそうです。ここでかすれたほうがいいな、ここで墨の量がほしいな、墨がかすれてきたけどもう少しかすれたまま続けて書きたいな、といった加減が感覚でわかってきます。「かすれ」といっても、早く書いたときと、ゆっくり書いたときとでは違う。そういった要素を好き嫌いで判断していき、だんだん自分の好みがわかってくると、紙の質や字体など他のさまざまな要素に目がいくようになります。

 文字が読めなくても、美しいという感想や好き嫌いの感覚はだれでももつことができます。外国人でも書を楽しめます。隷書の作品など、そのまま絵画として見ることもできます。実際、私でも全ての文字が読めないこともありますから。ただ、日本人なら、見ているうちに何が書かれているか知りたくなりますよね。

Q3. 感性で見るなら、絵画と同じ?

島谷弘幸 

同じでありながら、書ならではの一面もあります。ギャラリーで小ぶりの書を買えたとしましょう。家に持って帰れば、そこに何が書かれているか知りたくなります。字の意味がわかってくると、また違った書との楽しみかたが生まれます。

 選んだ書が、蝉の声を書いた和歌であれば夏にピッタリですが、これをそのまま飾っていると涼しくなるにつれ少しトーンダウンする。秋なら例えば紅葉を思うのが心情です。そうすると、一年で少なくとも4点の書が必要になってきます。そのうちに、人生訓や処世訓、例えば徳川家康の「人生は重荷を背負うて坂道を行くが如し」といったものもほしいと思えば、最低5点は揃えたいでしょう。

 造形で楽しんで、書かれた文字の内容で楽しむ、料紙がよければ工芸品として楽しめる。絵画と文学と工芸の要素が一体になった作品には、また別の楽しみがあります。

 そうして考えてみると、大河ドラマのなかで実資が愚痴を言いながら日記を書いているように、書として残っている作品には、書いた人の行為を含めいろいろな情報が含まれています。そしてそれらは活字に置き換えられるものではない。内容だけを追う人は、展示された書の下にある釈文しゃくもんを見て終わり。釈文を読んでも意味がわからなければ、もっとわかりやすく説明がほしいとなる。そういうことばかりになると、鑑賞がすっぽり抜けてしまいます。

 だから「書を見る」というのは、まずは書の造形や味わいを、内容ではなく感性でとらえるということです。一方「絵を読む」というのは、その絵を見て美しい、きれいねと思うだけでなく、その絵が描かれた理由や背景など、風景画であってもそうした物語性を考えればさらに深くなるという意味です。

国宝「金沢本万葉集」
平安時代・12世紀 皇居三の丸尚蔵館収蔵
加賀金沢の大名前田家が所蔵したことからこの名称となる。料紙は和製の唐紙といわれ、筆勢の強い変転自在の筆跡から藤原定信の筆とされる。
出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

Q4.「書く」行為から身体性が薄れてきています。

島谷弘幸

キーボードで文字を打つことと、手で書くことがどう違うか。書の場合ですと、「かな」で書く際にどの「字」をつかって書くかを瞬時に考えます。例えば、「あ」という一字を書くとき、次にくる文字が何であるかによって、「阿」がよいか、「安」のほうが連綿とつながるかを、自分の使いこなせる字母から選んで書いていきます。漢字の場合も同じです。和歌でも漢詩でも、まずそれを書きたいと思うことから始まります。

 ただ、漢詩の場合は、書家がそのなかの一文字を選び、それをメインにします。そして、他の文字を抑え気味に書くことで、メインの漢字がさらに映えてくる。ファッションと同じで、全部を飾りたてるのではなく、例えばスカーフをポイントにして、全体の色味などをそれに合わせますね。そういうことです。

 ところがキーボードではそれはできない。内容だけになってしまう。つまり平板になっていると感じます。文学をなさる人にしてみれば、そんなことはないとおっしゃるかもしれませんが、実際、筆記に比べると表現の幅が狭くなった気がします。

 それからキーボードならいくらでも打ち直しができる。だから書くことを吟味しないでとりあえず打っていこうとなる。ところが書だと、手紙にしても、相手に内容が伝わるように、あらかじめいろいろなことを脳裏に浮かべ、選択しながら書いていきます。だから時間をかけて、作品ではないけれど、どのように「見える」かを確かめながら書く。そこが大きな違いだと思います。

 ここに何通か筆で書かれた手紙がありますが、便箋の朱の罫に漆黒の墨で書いたもの、小さな料紙に書いたものなど、おしゃれですし、そこに立ちあらわれる文字の造形や筆の痕跡が、その人のかけた時間やその時の執筆状況をリアルに伝えてくれます。手紙や葉書のように作品ではないものでも、書かれた画面には人柄や心持ちが表れてくる。キーボードにはない人間性が書にはあると言えます。

 文学の場合は内容自体に人間性があるけれど、読まずに見ただではわからない。書の場合は見ただけでそれがわかる。ですから見た目の美しさを考えながら書いています。源氏物語も、見た目のことを考えながら書いたから、あのような文章になったのではないでしょうか。

 先に述べた藤原行成は、公任ほど和歌の才能はなかったと思いますが、それを書の才能で超えた人です。書に品があって、人間性の良さを感じます。1000年も前の時代の人物の人柄が伝わるのだから、書はタイムカプセル級のメディアだと思います。

Q5. 日本の「書」を、海外はどのように見ているか?

島谷弘幸

 中国と欧米では違います。中国の人は当然自国主義ですから、規則正しく力強い、きっちりした中国風の書が好きで、日本の「たおやかな書」は弱いと感じます。弱いから優美なのですが、その感性を理解できるのはある程度日本の文化を知り、書についても一段上のレベルに到達している人に限られます。

 一方、欧米の人は、どちらも馴染みがないので、すぐに内容を知りたがる傾向があります。ですから内容を書いた「釈文」を英訳して添えます。日本人は、平安朝のものを分割して表具にするときは、春夏秋冬のものを好みます。茶道ではとくにそうです。

 一方、外国にもっていくときに選ぶのは恋の歌です。海外展を行うときは恋に関連した作品を出せば、現地の人の感性に合う。例えば、「逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」は、「恋しい人とついに逢瀬を遂げてみた後の恋しい気持ちに比べたら、昔の思いなどないにひとしいものだった」と、それが日本人の恋心なんだ、と理解される。そして改めて書をみて、その造形に意味性を重ねて鑑賞してくれます。

 このことからもわかるように、欧米に向けて日本の伝統的な美術や文化を紹介するためには、彼らの感性に働きかけることが大切だと思います。

 そして日本の教育も、書写教育が中心で鑑賞まで手がまわらないので、博物館や美術館に出かけたら全部を見ようとせずに「好きな書」を感性で選んで、それをじっくり見るというところから始めてみてほしいと思います。

2023年11月に新たに開館した、皇居三の丸尚蔵館の外観(左)と内観(右)