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このシリーズでは、海外から見た日本文化について、さまざまな分野のプロフェッショナルに語っていただきます。これまでの出版活動を通じて出会った人々です。
伝統や文化の表層を一皮めくり、その先に未知の空間が広がることを期待しつつ……。
東京五輪の開催を機に、日本国内で英語による情報発信が増えてきた。新幹線乗務員のたどたどしいアナウンスには閉口するが、情報のグローバル化自体は歓迎すべきだと思う。
美術館や博物館でも、キャプションやウォールテキスト(解説パネル)に、日本語だけではなく、英語、中国語が併記されるようになり、展覧会の図録もバイリンガルのほうが多くなってきている。
1990年代にニューヨークで編集の見習いをしていたときに、日本文化の情報不足に、英語で発信することの重要性を痛感した。以来、長く英文出版に携わってきたが、その経験から言えるのは、翻訳が本の成功のカギを握るということである。
私がいまもっとも信頼を寄せているのが、日本在住40年超のミラー和空さんである。今回は、日本の文化に精通するミラーさんに、日本文化を「英語で伝えること」について、尋ねてみた。
出会い
初めてお会いしたのは、2018年のこと。『東京国立博物館の至宝』の英語版の翻訳を依頼するためであった。本書は、国宝・重要文化財を中心にした、文字通り東博の「お宝」150点を、写真家の六田知弘さんによる新撮写真で紹介するもので、2020年の東京五輪に合わせて、日本語、英語、中国語の3つのエディションで出版することになっていた。
少し補足すると、パリの美術出版社であるディアンヌ・ド・セリエ社に英語版のブックデザインを依頼し、テキスト部分を日本語と中国語に差し替える、多言語出版である。
巻末の作品解説は、東博から提供されたテキストが日本語なので、英語版用に英訳する必要がある。その翻訳者を探していたところ、翻訳家の木下哲夫さんから「これ以上ない適任者がいます」と紹介されたのが、日本企業の英語広報を担ってきたベテランで、かつ東博から徒歩15分の場所に居を構え、東博の年間パスポートをもつ禅僧……。このユニークな人物こそ、和空さん(と筆者は呼んでいる)である。
正解のない翻訳
東博の「至宝」であるから、縄文時代の《火焔型土器》から明治の美術まで、さらに、オリエントを含むアジア各地からの伝来品も多く含まれる。分野も考古品、仏像、絵画、陶磁器、刀剣・甲冑、衣装、面など多岐にわたる作品を、東博の専門家が一点一点、解説してくださった。
例えば、室町時代の甲冑《樫鳥糸肩赤威胴丸》[重要文化財]の解説文には、「この糸の名称は樫鳥糸のほか松皮糸などの説がある。陸奥国の三春藩主秋田家に伝来した」とある。正直、「これ翻訳できるの?」と心配になったし、博物館の英語のキャプションや解説をつくるのには、本当に苦労されているのだと今さらながら感謝する。
ただ、翻訳に「正解」はないわけで、翻訳者自身の考え方やルール(どの程度説明を加えるかを含め)、テクニックがモノを言う。ちなみに前述の解説は以下のように訳された。
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The blue-and-red lacing for the armor plates is in a pattern known as pine bark or Eurasian jay. This suit of armor was long in the possession of the Akita clan, which ruled the northern Honshu domain of Miharu.
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読者のための翻訳
もう一つ、日本の工芸から難しい翻訳の例を挙げてみたい。例えば《男山蒔絵硯箱》[重要文化財]の解説の最後には、工芸用語だけでなく、和歌まで含まれている。
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図様の随所には薄い銀板の葦手文字が散らされ、この意匠が『続後撰和歌集』にある「なほ照らせ代々にかはらず男山 仰ぐ峰より出る月影」の歌に取材している。
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さて、和空さんはどのように訳されたか?
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Semi-concealed in the artwork on the both sides of the lid are the words of a poem from the Shoku-Gosenwakashu (Sequel to the later anthology of Japanese poetry): “Glowing unfailing through the ages is the moon that appears anew over Otokoyama as I gaze at the summit.” The Gosenwakashu and its sequel comprise poetry not included in the better-known Kokin Wakashu (Anthology of old and new Japanese poetry).
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和歌の見事な翻訳もさることながら、最後(下線部)に、「『後撰和歌集』とその続編は、よく知られている『古今和歌集』には収録されていない歌で構成されている」と、英語読者のための説明が添えられている。この翻訳について、東博では、同館の刊行物であればより本文に忠実さを求めるかもしれないが、本書は「2020」に向けて海外発信で編まれた本なので、と了解を得ることができた。
ほかにも、「不動明王」「般若心経」など仏教用語も満載で、禅僧である和空さんの知識が遺憾なく発揮され、ぶじ英訳が完成。コロナ禍のため1年延期されたものの、本書は2020年11月に上梓することができた。
長年翻訳出版に携わってきて言えることは、対象とする読者によって翻訳は異なってくるということである。
例えば、「makie(蒔絵)」と書いて説明の要らない読者もいれば、ガイドブックで初めて目にするケースもある。読者に合わせて、「makie」をそのまま「gold lacquer」「silver lacquer」に置き換えてもいいし、「makie (gold lacquer)」とし、その後に簡単な説明を添えてもいいだろう。
こうした例を踏まえ、和空さんに、翻訳に関する考え方やルールについてお聞きすべくインタビューを申し込んだ。事前にいくつか質問を伝えておいたが、その答えは果たして、「伝える」ことへの情熱であり、上質の翻訳論であった。
Q. 1 翻訳で一番苦労することは?
ミラー和空
質問にお答えする前に、まず申し上げたいのは、「翻訳」は「執筆」であり、英訳とは「英語を書くこと」にほかならない。それを忘れてはいけない。英語は単語だけでできているのではなく、センテンスであり、段落であり、構文です。だから、英語らしいセンテンス、英語らしい段落、英語らしい構文でなければ、「英訳」したと言えません。語句と語句、フレーズとフレーズの「置換」ではないのです。
よく「この文章は翻訳調」だと言うことがあります。つまり、英語として不自然ということです。例えば、日本語の特徴として受動態が多い。また、文頭に接続詞が頻出します。「さて」「ところで」「なお」「しかし」「さらに」……。これを訳してしまうと、英語では躍動感のない文章になってしまう。
また、主題文(英語ではトピックセンテンスといいます)は、日本語では段落の最後にきますが、英語では圧倒的に最初にくることが多い。「なになにである。なぜならば」と、まず結論を言って、その後に裏付けします。日本語では「……だから、なになにだ」と結論があとにくる。日英で順序が違うのです。そのため、日本語の主題文を英語のように最初にもってくると、「意訳」だと言われてしまうけど、これが「直訳」です。受動態を能動態にすることで「英語らしく」なるのです。
私は日本語で文章を書くと、自然に受動態を使いますが、それを自分で英訳したら、受動態が一度も出てこないこともあります。
Q. 2 『続後撰和歌集』のように説明を加える基準やルールは?
ミラー和空
私は基本的に、日本語を読んだ人と同じ体験を、英訳を読んだ人にもしてほしいと思って訳します。だから、『続後撰和歌集』について説明したのも、註をつけるより、英文の読者が、日本語の読者が感じたように、作品世界を味わってほしいからです。
一つ面白い例があります。道元の『正法眼蔵』のなかに、何度も「本物の龍に会った時どうするか」という問いが出てきます。これは、龍マニアで作り物の龍をたくさん集めていた男が、森のなかで本物の龍に出くわし、泡を食って逃げたという中国の故事に基づくもので、真実と向き合った時に対峙する勇気があるかという問いなのです。
この何度も出てくる「本物の龍に会った時」を、そのまま英訳しても意味がわからないし、道元の教えが伝わらない。なので、この故事の説明を入れることは「意訳」ではなく、「直訳」だと私は思っています。「原文の読者と同じ体験をさせてあげる」ために必要なのです。もちろん註釈をつける方法はありますが、原文にはない註釈を、英文の読者にだけ強いるのは理に叶わないと思うのです。
私にとって、日本語を英語らしく表現する工夫、もうひとつは英語を広めるための工夫、この2つが翻訳する際の課題になります。
とは言いつつ、友人の翻訳家、木下哲夫さんは「今どきの人は、知らないことがあるとスマホで検索しながら読むので、それを前提に訳せばいいのでは」という考えで、よく議論になります。それはそうなのですが、私は依然として、原文を読む人がもっている知識を、本文中に盛り込むべきと考えています。
Q. 3 文体のニュアンスも追体験できるか?
ミラー和空
私が紫式部の次に尊敬しているのが、樋口一葉なのですが、円地文子をはじめ、多和田葉子、伊藤比呂美らによって現代語に訳されています。でも、平安時代ならともかく、たかだか曽祖父・曾祖母の時代の文学を訳す必要ありますか? まったく個人的な意見ですが、「一葉さん」の作品は、ストーリー性は平凡だと思うのですが、とにかく文体が素晴らしい。とても官能的。
翻訳論と関わってくるので話しますが、『たけくらべ』の冒頭は、「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」で始まりますよね。とてもスムーズで自然な日本語に聞こえます。でも、この「廻れば大門」という表現は、中を通らないで迂回するのか、吉原の大門のなかを廻るのか、それともお金持ちが猪牙舟を使って迂回しながら吉原に着いたという意味なのか。いくつかの現代語訳を読んでも、権威ある英訳を読んでも解釈は人それぞれ。
とっても自然で心地よい日本語なのに、意味がはっきりしない。研究者と話しても、おそらく書いた本人もわからないのではないかとおっしゃる。つまり、一葉さんの文学は耳に心地よく、かつ意味が曖昧で開かれているとも言えます。
私の一生の夢は、この『たけくらべ』を日本語の文体を活かしながら、かつ英語で読んで不自然にならない英訳をすることです。一葉さんの官能的な文体を安易に訳せば、“前衛的”に聞こえてしまうので、それを自然な英語で表現したい。
Q. 4 日本の工芸でお好きなものは?
ミラー和空
翻訳で稼いで少しでもお金が貯まると、すぐに工芸品を買ってしまいます。でも、この「工芸品」という言葉にはひっかかりを感じています。「Fine Art とCraft」、「純粋美術と工芸」の違いです。
ここでその議論をしたいわけではなく、美しいものは偶然できたものではなく、意図して作られたと思うのです。だから、美術品と工芸品を分けるのはナンセンスだと思うし、それを分けるときに「実用性」がよく引き合いに出されますよね。
私は毎朝、大好きな陶芸家の安倍安人さんの茶碗で薄茶を点てます。お茶を飲むという実用性があるので「工芸」でしょうが、もし、穴が空いていて水が漏れるなら実用性がなくなり、この美しい茶碗は美術品になるのかな、などと考えてしまったりするのです。
安人さんの作品集を訳したときに、「彩色備前花いらず」は「Polychrome Bizen hanairazu (“floweless” vase)」と訳していますが、花は生けられないので、工芸ではなくオブジェでしょうか(笑
最後に、『Japanese Studio Crafts』という、ヴィクトリア&アルバートミュージアムの学芸員が書いた本があります。約30年前の1995年に出された日本工芸の百科事典のような書籍ですが、英語で書かれた日本の工芸本として秀逸で、お薦めです。