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もののみごとを訪ねて 第1回

竹林の再生をも視野に入れた循環のアート

四代田辺竹雲斎が挑みつづける竹工芸の未来

取材・文田中敦子 [工芸ライター]

工芸の作品には、固有の美しさを支える物語があります。その物語が次世代の形を導き出していくのではないでしょうか。

手と心が生み出す見事な仕事を訪ねながら、工芸の現在形を伝えたいと思います。

竹インスタレーションの発するメッセージ

龍や大蛇のごとく、うねり、広がり、這い、立ちのぼる。はるかにそびえる竹の集合体は、竹ひごの尽きたその先にまでつづくような生命力に満ち、見る人の想像力を圧倒してしまう。

四代田辺竹雲斎さんのインスタレーションは、竹工芸の枠を超え、アートとして世界を魅了し、竹という東洋的な素材の新たな可能性をメッセージする。このインスタレーションの特異性は、伝統的な竹工芸の家に生まれた竹雲斎さんが、その伝統を受け継ぐ中で試行錯誤し、清新な竹工芸作品を制作する一方で、伝統の文脈から外れることなく、家伝の技法を駆使して一本一本手作業で竹を編みながら、驚くべき竹のインスタレーションへと発展させた、その力量と創造性にあると思う。

四代田辺竹雲斎 たなべ ちくうんさい

1973年大阪府堺市に三代田辺竹雲斎の次男として生まれる。 1999年東京藝術大学 美術学部彫刻科卒業後、父・三代竹雲斎に師事。代々の伝統技術を受け継ぎ、伝統工芸の世界で高い評価を得る一方、竹の大型インスタレーションを海外の美術館などで発表し続けている。 2017年四代竹雲斎を襲名 

サンフランシスコ・アジア美術館にてのインスタレーション作品『CONNECTION』 2019
©渞忠之
フランス国立ギメ美術館でのインスタレーション『五大』の準備風景 2016
©渞忠之

竹編みの技術だけでメガスケールのオブジェを実現、その造形は常に宇宙や生命と繋がる東洋哲学的テーマと共にある。が、メッセージはそこにとどまっていない。

「私たち竹を愛する者としては、竹を一つの道具として使い、消費することは避けたいんです。愛情を込めて一本一本小刀で削ってつくる竹ひごを、なんとか循環していこうと考えました」

そこで、使用した竹ひごを会期終了後に一本ずつ解体、傷んでしまった竹があれば取り除く。それらをまた次のオブジェに用いて、足りない分は新しいものを補充する。これが竹雲斎さんのインスタレーションをより現代的に位置づけている。竹ひごという材でありながら、生命細胞のような循環が行われているのだから。自然素材を用い、手作業で構成し、その素材を循環させていく。アートとして縦横無尽に展開しながら、そこに宿るのは竹への愛であり、竹工芸の家で育った人の純粋な心持ちなのだ。

現在、竹工芸が盛んな土地は、大分と栃木。いずれも材料となる竹の産地としても知られる。竹雲斎さんの工房がある大阪・堺もまた、かつては竹の産地を備えた竹工芸の地だったという。ただ、堺に竹工芸がおこった背景には、貿易都市として栄えた自治都市の歴史が大きく影響している。江戸中期以降、大阪商人を中心に隆盛した文人文化の中枢を担う煎茶道において、唐物花籃からものはなかごが用いられたことが竹工芸発展の端緒となったのだ。

煎茶道は抹茶道と同様に中国から伝わった文化だが、大阪で煎茶が広まったのには理由がある。桃山から江戸時代はじめに確立した茶道が形式化していく中で、煎茶の持つ風通しのよさと中国の文人文化への憧れが、大阪商人の気風に合ったのだ。そんな煎茶の世界において竹の書画や道具が重用されたのは、竹の特性にあるという。しなやかにして強靭、つ凜とした佇まいとは対照的に、中は空洞で淡々としている。その姿が中国文人の理想であり、画題や文様として喜ばれたという。中国文人に憧れた煎茶人は当然追随、中でも中国の精緻な竹編みの花籃は「唐物」と呼ばれて珍重された。「当時の日本には細かい竹編がなかったので、その素晴らしい細工を真似てつくろうと。その中心となったのが堺だったんです」。

つまり、堺の竹工芸は、煎茶人の要望に応じて生まれた「都市型の工芸」という側面がある。そして、初代竹雲斎はいかにも都市型の工芸人らしく、竹工芸の名匠であるばかりでなく清風青山流なる花道の家元でもあり、文人と盛んに交流、教養を高めたという。求心的に制作する一方で遠心的に世界を広げる、その両義性を矛盾なく実現するという新しい工芸家の姿を示した初代のありようは代々に受け継がれ、結果、大きく花開いたのが四代のインスタレーションなのだ。国内外で高い評価を得、展覧会オファーは引きも切らず、竹雲斎さんは快進撃を続けている。

かつて堺に多くあった竹工芸の家は、世の中の浮沈に翻弄されて消えていった。現在、田辺家一軒になった状況下で、何としても家伝を伝えていきたいと願う強い思いが竹雲斎さんにはある。「伝統は挑戦なり」の家訓を胸に刻み、ともすれば足かせになる伝統をスプリングボードに変え、工芸をアートの域に引き上げた。そこに込められたメッセージは、多くの工芸家をも力づけるものではないだろうか。

ものづくりが抱える問題と未来への道すじ

ただ、現代の工芸が背負う宿命を、竹雲斎さんもまた切実に感じている。材料調達への不安である。堺の竹工芸が竹材調達を近隣に頼れなくなったのは、太平洋戦争後。空襲により焦土と化した堺の復興と共に竹工芸は息を吹き返したが、材料となる竹は堺港に注ぐ大和川の整備によりことごとく伐採され、以降、日本各地から竹を取り寄せる方向へと切り替えることになる。かつて竹は、建材から農具まで人々の暮らしをあまねく支える存在で、質のいい竹材の産地が日本各地に点在、それらが堺の竹工芸を支えてきた。

その竹の産地が危機を迎えている。かつて竹が担った役割をプラスチック製品などが代替して久しい今、各地の竹林は供給先を失い、放置され、数少ない担い手は高齢化して、竹工芸に使う良質な材料を調達できる竹林の存続が難しくなっているのだ。「これからは工房として技術を継承するだけでなく、素材である竹を育てる竹林の保全にも積極的に関わっていくことを考えています」。

高知の竹林にて
©渞忠之

現在、竹雲斎さんの工房では、七ヶ所の竹産地から材を取り寄せている。鹿児島・福岡・大分・滋賀からは日本の固有種である真竹まだけを。強靭で繊維が細かく、しなやかだという。和歌山からは黒竹くろちく。黒みが強く、海風が当たることでより黒くなる竹だ。高知からは虎竹とらたけ。熱を加え磨き上げると虎模様を思わせる斑が現れる。高知県須崎市安和の一部の竹林にしか育成しない。そして鳥取からは鳳尾竹ほうびちく。古くから自生する根曲がり竹。こうした材の未来を考え、数年前より様々な形で竹林保全や再生に取り組んでいるという。産地を訪問して調査を行い、その現状を知ること。産地でワークショップを行うこと。後継者問題を抱える産地から、まとまった数を定期的に仕入れること。生産者とウェビナーで対談し、海外のコレクターやキュレーターに向けて竹材の現状を知ってもらうこと。制作だけでも多忙な竹雲斎さんがアクションを起こすのは、並大抵なことではない。けれど日本の工芸全般が、将来的に継続していけるかどうかの瀬戸際にあり、個人が動くしかない状況であることを竹雲斎さんは痛切に感じている。

「大量に竹材を使うインスタレーションは、竹林再生の要になると思うんです」と、竹雲斎さんは考える。さらに、竹材を使用したビルを実現できれば竹の使用量は格段に増え、結果、竹林を安定的に管理できるようになる。世界的なトップメゾンであるロエベと契約を結んだことで、今後、様々な構想が現実となっていくのではないか。

今、竹雲斎さんの工房では10人を超える弟子が修業している。彼らは免許制によって確かな技術を身につけていく。「私のところは時期を区切って免許皆伝するんです。3年で初伝、5年で中伝、7年で奥伝、10年で皆伝。3年毎に試験し、合格するごとに正式な儀式を行います。これを経て、皆すごくステップアップするんです」。竹雲斎さんは今後も少しずつ弟子の数を増やしていく計画だという。また、3人の子どもたちもインスタレーションやワークショップに関わりながら、成長している最中だ。彼らの時代がやってきたとき、そこからさらに先へと続く竹工芸のために、竹雲斎さんは奮闘の日々を送っている。

©渞忠之

四代田辺竹雲斎 公式サイト
https://chikuunsai.com