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文化を愛する旅にでる 第4回

いま引き継げるものを見て学び、次の時代に手渡していく

京都・宮廷文化を旅する その2

取材・文酒井一途 [コーディネーター]

文化を愛する旅とは、人によって営まれてきたその地の文化の文脈を知り、学び、みずから触れにゆくこと。そのための旅をすること。

工芸や建築、寺社仏閣、芸能をはじめとする有形無形の文化、食のあり方、生活や暮らしに根づいたヴァナキュラーな文化、さらにはその地の人びとの価値観、生き方までさまざまな形を、愛されるべき文化とよびたい。

この連載では、旅先の地にある広義の文化をいかに知り、触れにゆくことができるかを、文化の担い手や観光に携わる方々と共に考えていく。

山科伯爵邸(現「源鳳院」)大正9(1920)年創建当初の門構え

その1」に引き続き、旧公家の山科家三十代後嗣山科言親さんと、山科伯爵邸 源鳳院女将の加藤由紀子さんにお話を伺います。

まちを訪れる人との関係性を本気で築く

山科言親

京都では生活と文化的な営みが近くにあり、日常と非日常の境が自然と融合した形であるのですよね。生活や商売の延長線上で、そのなかにハレとケの区別があります。東京ではわざわざ非日常の体験としてお茶を習ったりしますよね。それは生活から離れているものを取りに行こうとする文化の体験です。同じお茶をする、お花をするにも大きな違いが生まれます。同じ日本に住んでいても、生活との距離感次第で文化の捉え方が違うだろうと思います。

酒井一途

京都に外から旅をしにやってくる人がいたとき、生活文化に紐づいたものとしての「お茶」に出会うことはやはりむずかしく、「観光コンテンツ化された茶道の体験」が用意されています。そのように自分自身と結びつき得る形ではなく、文化をコンテンツとして消費するように体験してしまうのはもったいないことだと感じます。

山科言親

日常が日常である以上、外から来た人に対しての対応はどうしても変わりますよね。日常から外れたしつらいを準備をすることによって、外からの受け入れが叶うわけです。だからある種の限界はあります。本当の意味で生活文化を体験してもらうには、単なるストレンジャー(異邦人)やトラベラーとしてではなく、半分住んでしまうぐらいの関わり方をしてもらうところにいかないといけない。

ケチで受け入れないとか、京都は「いけず」やからということではなくて、人の流れの多さであったり、まちとしてのキャパシティの整合性が取れるかどうかなんですよね。それでもある程度外に見せていかないといけないところもあって、限界を理解した上でどのようにするのかが議論していかなければなりません。文化観光でいう「観光があっての文化ではなく、文化があっての観光」とはそういうことですものね。

酒井一途

京都のオーバーツーリズムは観光界隈でも重大な課題ですが、京都に限らずどんな地域であったとしても、まちとしてのキャパシティは考えるべきです。観光消費を狙って観光客数を増大させるために一発当てるようなコンテンツを作って、たとえうまく成功したとしても、まちや住民たちに短期的に過剰な負荷がかかるだけです。まちに訪れるひととの関係性をどう作っていくかこそ、考えなければならないことだと思います。

山科言親

そのためにも、普通に来た人に対しての本気を見せることも大事だと思います。下手物げてものやどうでもいいものを提供するのではなく、自分たちが日常的に使っているものと遜色のないものを提供する。それが第一歩だと思います。どうせわかっていない人だからとか、外国人だからといって適当なことをして稼いでいては、本質的なことがいつまで経っても伝わっていきません。特別視しないことですよね。

酒井一途

適当な応対の延長線上では、文化の伝達はどうあってもなしえないですものね。

山科言親

表面的にやっている感は出せても、ものづくりの現場や地域に還元されることには繋がらないでしょうから。個々人ができることもそうですし、観光産業にいる人はその立場で考えられることがありますし、旅行者としても持つべき意識があります。それぞれにできることがあると思います。正解はなく、道筋が立っているわけでもないのですが、意識してできることなのだから、やらないともったいないのですよね。


山科言親

京都というまちの土壌は古くから寛容であったと思います。そもそもいろんな階層、職域の人が混在しており、共存共生してきたまちです。公家町であった御所の中にも一般の人たちや商人が出入りしていました。新しいものを受け入れることに関しても、貿易や海外からの使節団が来ていたことで、最前線でした。それでも今では来られる方々があまりにも多すぎて、観光公害やら言われるようになっているのも現実です。

加藤由紀子

京都の価値、文化の価値とはなんなのか考えさせられますね。ある方が仰っていたのですが、「世界からそれなりの方を日本に呼ぼうとすると、京都がないと呼べない」というのです。「京都へ行けるのならば日本に来る」というほど、重要なのだそうです。

山科言親

外交的カードやな。

加藤由紀子

京都という土地の体験そのものが文化資源になっているのですよね。

酒井一途

京都にも複数の文化的なレイヤーがある中で、旅行者がどの深さのレイヤーにまでアクセスできるかをお伺いしたいです。たとえば紹介される人に依存することもあるでしょうし、その人が持っている文化的な知識次第で「そこまでご存じなのでしたら、こちらへどうぞ」ということもあるだろうと思います。どのようにすれば、深いレイヤーにまでアクセスしていくことができるでしょうか。

加藤由紀子

海外の旅行代理店の方で、もっと深い京都を紹介したいという方がまず自分で勉強しに来られて、そこから商品として組み立てられることはあります。対象になるお客さまは相当文化度の高い方々で、お茶なども当然一通り経験されて、もう一歩深い京都の文化を体験されたいといって、宮中文化をプライベートな席で体験してもらう企画を作られました。なかなか個人で来るだけでは、そこまで深まることはないですね。

山科言親

日本に関心を抱いて海外から来られる方々でも文化的なリテラシーには差があるので、仲介者が丁寧にあいだを繋がれることでギャップが埋まっていくことはあります。

加藤由紀子

海外からそうした知識欲を持たれる方がいらっしゃるほか、国内のクリエイターの方々が具体的な商品開発を目的に学びに来られることもあります。化粧品開発に日本の着物をテーマにしたカラーリングをしたいとかのご相談ですね。ただ表面的なところで留まってしまい、深いところまではいかないです。理解できないものになってしまうと、マーケットに出したときに伝わらないから仕方がないのでしょうけれどね。

酒井一途

担当して来られる方は本当に心を持って来られたとしても、実際に商品化していく過程で変わっていってしまうのですよね。

加藤由紀子

ほかに国内ではファッションのハイブランドの顧客向けにプライベート講座をしてきたことがあります。こちらもやはり文化的な意識の高い方々に向けたものです。

山科言親

人づてにご紹介いただいたマーケティングの顧客担当の方が、京都で展示会をするにあたってアクティビティを探しておられると。そのツアーの一環で文化体験をさせたいという話でしたね。

加藤由紀子

源鳳院が主催する宮廷文化講座などのイベントには一般向けのものもあり、興味のある人であれば誰でも参加しやすい価格設定で行っています。一般向けのイベントに来られるのは国内からの参加者がほとんどです。各回30人から50人ほどですね。

一般向けのイベントと、文化的リテラシーの高い方向けのプライベート講座の中間がなかなか埋められていません。安くしたから良く、より伝わっていくというものでもないので、山科さんの立場や受け継がれてきた文化を守っていくことも考えなければと私は思っています。

山科言親

価値づけは難しいのですよね。質を担保して伝えていくためにも。

加藤由紀子

宿泊施設としての源鳳院の営業は高価格帯で、インバウンドがメインターゲットとなっています。時期によっても異なりますが、1部屋2人で5万円くらいから、一番高額なプライベートガーデン付きの離れのお部屋は2人で20数万円くらい。そんなにものすごく高いわけでもないのですけれど。4部屋しかないので、普通の旅館としてはやっていけないのです。

実際に今のところ海外からのお客さまが99%なので、今後はとくに源鳳院の歴史的背景に興味をもって来られるお客さまを対象として、宮廷文化を学びつつ体験することのできる2泊3日くらいのツアーを作れたらと思っています。

参考にしたいのはguntûさんという豪華客船です。船に宿泊滞在して瀬戸内の圏域を巡る航路でツアーを組まれていて、2泊で100万円以上します。時間軸を超えて歴史を体感できるような私たちなりのツアーを作れたらおもしろいなと思っています。

酒井一途

富裕層で一晩に100万円程を普通に使いたい人たちも世の中にはいるのですよね。もちろん見合った質の高さとサービスを求めますし、目も舌も肥えた方々ですけれども。

山科言親

豊かな空間を味わう感性、余裕のある時間の過ごし方をもたれる方々と出会えたら嬉しいですね。掛け軸ひとつもまた、いらっしゃるお客さんのために掛けている絵がありますから。

加藤由紀子

源鳳院の宿泊体験は、かつてお公家さんであった家の方々が住まれていた邸宅での暮らしを味わえる「生活文化」体験です。海外の方からは、この場所のことを「平和的(Peaceful)な場所」だと仰っていただくことが幾度もありました。「平和的な雰囲気」というものがあるのだなと、彼らから教えてもらいました。日本では平和が当たり前になっていますが、平和ではないところが身近にある国からすると、平和を感じられるというのが大切なこととしてフォーカスされるのですね。

酒井一途

文化といってもさまざまな形がありますよね。「平和的な場所」という雰囲気を味わうことのできる宿泊体験は、形として残せるものではないからこそ肌身で感じる文化の体験として唯一無二のものかもしれません。知識とはまた別のところにある価値ですね。

山科伯爵邸源鳳院 中庭(現在)

見聞の感度が高まると、事物に触れたときの解像度が上がる

酒井一途

山科さんが京都で遊ばれるときにはどこへ行くのでしょう。

山科言親

遊びということでもないですが、2年前から金剛流の宇髙竜成うだかたつしげさんにおうたいを習い始めました。建仁寺両足院副住職の伊藤東凌いとうとうりょうさん、西陣織の細尾真孝ほそおまさたかさん、京繍きょうぬい作家の長艸真吾ながくさしんごさん、ハーバード大学仏教美術研究員のダニエル・ボレンガッセールさんたちと一緒に稽古をつけていただいています。みんな忙しい中でもお稽古事で日程を合わせておくと会うきっかけになるんですよね。それが醍醐味の一つでね。普段はそうそう会えなくても、お稽古で会って交流する場ができると、次に繋がっていきますしね。

ただメンバーがメンバーなので、稽古をしていても謡の中で仏教経典の一節があったりすると、建仁寺の伊藤さんがこういう意味だと思います、と言うと、仏教美術を研究するダニエルさんがこの仏さんはこうで、と話しはじめる。

加藤由紀子

みんなそれぞれの専門性から切り取ってくるから全然お稽古が進まない(笑)

山科言親

謡本を精読しまくっていますよ。これでは進まないからまず声出していこう!と言いながらも気づいたら夜八時くらいになっていて、そろそろ焼肉でも行こか、と。

加藤由紀子

いいサロンになっているんですよね。

山科言親

金剛流のお家元に聞くと京都の旦那衆がお稽古をされていて、やはりお家元の話を聴いたり雑談のようなことをして、謡は自主練しておけよと言うくらいな感じで(笑)。プロになるわけでもないし、正確さをもとめてがちがちにやるのもしんどい。まさしく居心地のよいサロンのような場として集まっているのですよね。昔はもっとそのような場があったのでしょう。そういう文化への関わり方もあるし、取り入れられる方法があるのではないかと思いますね。

酒井一途

豊かな人は、文化的な学びや人との交流の場となる通路を複数持っていますよね。

山科言親

そうすると一つひとつを繋げようと意識していなくても、繋がってくるんですよね。あるときふと繋がって意味がわかって、物事の見え方が変わってきたりします。マップができていくように解像度が上がっていくのですよ。この着物の柄はこういうことか、この和歌の一節はこういう情景だったのか、と。感度が高まることで、見えてきたり聴こえてきたりしはじめる。人間の身体的な豊かさにも通じる道だと感じます。

加藤由紀子

宇髙さんとは源鳳院で「表装の世界と御能」というイベントもしましたね。

山科言親

宇髙先生は能に関する掛軸を集めておられるのです。能そのものの絵なら誰でもわかりますが、能の物語の背景になっている古典的な情景を描いている絵は、ただ見ても何なのかわからない。あちこちで掘り出し物をみつけてきてはコレクションにされて喜ばれています。誰も価値に気づかなかったものを、知っている人が見ることで息吹が吹き込まれて、価値づけされていくのです。

加藤由紀子

夜な夜な二人で掛軸を広げて絵解きをしているんですよ。お能から見た話を宇髙さんが話されるのはもちろん、山科さんの観点も加わって「表装で使っているきれがこうだから、描かれている能の演目にも紐づいてこんな意味が生まれる」とその場で発見していくんです。ラジオにでもしたらいいのに、と言って実際にイベントになったんです。

山科言親

表具ひとつもすごく考えられていて、表具をする人は絵の意味を取り合わせて、わざわざ裂を取り寄せてきて作っていくんです。イベントでは表具師の井上雅博さんと対談形式でセッションを行いました。作為的に企画したイベントというより、偶発的にできていったのもおもしろいところです。

加藤由紀子

また別の話ですが、昨日は二人で宇治の朝日焼の窯元の松林佑典まつばやしゆうすけさん(十六世松林豊斎ほうさい)のところへ行ってきました。初代からの歴代当主のお茶碗が興聖寺で展示されているのを案内してもらったんです。宇治という土地で生まれ育って、そこの土を使って焼き物を焼く。お正月は半日かけて神社とお寺と土が取れる山とを巡って、御礼廻りの挨拶をされる。そのルーティーンが先祖代々当たり前にずっと続いているというのです。

山科言親

話を伺っていると、自然と彼の器を買いたい気持ちになってくる(笑)

加藤由紀子

物欲というより、応援したい気持ちでね。今日お話を伺った感動を還元したいという思いが生まれてくるんですよ。彼と話をすると心が洗われるような気がしてきて。帰りに花瓶とお茶碗を買って帰りたいと言ったら、話をたくさん伺っていたせいでお店が17時で閉まっていて、「開けてないんかい」って(笑)

お金に余裕がある方で使い先がわからずにおられたら、こういう経験をして価値観を共有することで、関心をもたれればきっと豊かなお金の巡りかたになります。

山科言親

文化も今生きている人を支援しようというだけでは限界があってね、将来の世代や過去からの受け継がれてきたなにかに向かう思いがあるといいと思います。

加藤由紀子

代を超えて繋がるものでもありますからね。松林さんの曾祖父にあたる十三世当主の弟さんは、バーナード・リーチさんの窯を作りにイギリスに行かれたのだそうです。松林さんが何年か前にその窯を再訪して、イギリスの土と宇治の土を混ぜて器を焼いていたりするんです。ぜひ酒井さんにも松林さんをご紹介したいですね。

山科言親

宇治という同じ土地を一つの家が400年見続けていますから、定点的な視座を持っていますよね。文化観光という観点では松林さんは意識しておられなくても、ヒントとなることがきっとあるのだろうと思います。

酒井一途

楽しみです。ぜひいっしょに遊びに伺わせてください。

観光を通じて知恵を受け継ぎ、未来へと引き継いでいく

山科言親

文化的なことに対する慣習や考え方が変わっていくのは、そのときどきを生きる人たちは意外と意識していないのかもしれません。知らず知らず二代、三代を経ていくうちに変わっていく。町並みもそうで、一気にすべてが変わるわけではないのですよね。

酒井一途

時代を超えての変化には必要に応じてのこともあれば、残すべきものを見定められずにそれこそ知らぬ間に大事だったはずのものを失っていってしまうこともあります。

山科言親

われわれは過去から来ているものをいかに拾うかで、もう取りきれないくらいのものがあるわけです。江戸時代からすると、現代の人口は4倍にもなっているにもかかわらず、文化的なものは縮小していっている。これはどういうことなんや、と考えざるをえないですよね。

酒井一途

時間軸をもった文脈が分断されることは、文化の存続の危機を生じさせます。過去からのものを受け継いで、後世に引き継いでいくという循環が失われていく。今に始まったことではなく、たとえば戦後や明治維新は一つの大きな転換点でした。いま引き継げるものを、いま生きている人がちゃんと見て学んで、その文脈を次の時代に手渡していくことが大事です。文化はそうしたことでしか継承していけないものですから。

山科言親

私はおじいちゃんっ子で、祖父母の世代から受けた影響が大きいのです。たまたま学校から近くに祖父母の家があって部活帰りにおやつを食べに寄ったり、身近だったから何も考えずに足を運んでいた。結果的にたくさんの話を聞けたんですよね。両親も聞いていなかった話を、孫である僕が聞いていたりもします。そこで気づかせてもらえたことが多くありましたし、引き継がせてもらった感覚があります。そういう私的な体験は、家の歴史は置いておいて、「個人」にある話なんですよね。

酒井一途

どんな家でも時代を生きてきた「個人」としてのストーリーを誰しも持っていて、そこから受け継げるものがあるはずですものね。

山科言親

祖父自身が上の世代から聞いてきた話でも、見てきたかのように語ってくれて、リアルに自分の中に残っていきました。人間は隔世である程度の情報を伝達できます。大正14年生まれであった祖父の記憶を私が聞くと、幕末生まれの高祖父の話までもしかすると受け継げます。五、六代は遡って繋がりうると思うとすごい話じゃないですか。意識的にアプローチしないとできませんが、聴くべきことはまだまだ身近に手繰り寄せられるのではないかと思います。そして、そういうところで引き継がれるものは意外と多いのではないか、僕らが思っている以上に大きいのではないかと思います。自分の思想や価値観、哲学といった根源的な部分に関わるものになっていくはずですから。単なる情報にすぎないもの以上のなにかが宿っていますよね。

酒井一途

僕の父方の祖父は会津で修行した漆塗りの職人でして、小さい頃から漆器は身近にあったはずなのですが、そのうつくしさや工芸への関心に目覚めたのはごく最近です。祖父の存命中に話をもっと聞いておければと今にして思います。

山科言親

核家族でばらばらになっていますし、環境的にも祖父母に話を聞こうという思いに至ることがまず難しいのですよね。もう少し聞いておけばよかったと後になってから気づく人は、酒井さんに限らずたくさんおられるのではないでしょうか。感覚がそこに開くのにある程度の歳を経てからというのもあるのだと思いますが。オーラルヒストリーはその人が亡くなってしまってからではもう聞くことができないのですよね。意識的にすこしでも早く気づいて、録音なり映像なりで残せるのであれば残していくことも大事ですね。

酒井一途

肉親からだけでなく、旅の中でそうした話を聞くことができたら大きなことですよね。

山科言親

たしかに。世代間を超えて引き継いでいくものに着目した「観光」、観光というよりも「引き継ぐ行為を目的とした旅」のあり方があってもいいですね。その観点はこれまでにあまりなかったような気がします。人類共有の財産ともなりえる、そこにしかない話がそれぞれにありますけれども、聴いてくれる人がいないと話さないですから。それぞれの地域、それぞれの人にそれぞれのストーリーがあって、もっともっと伝えていくべきもの、受け取るべきものがあると思います。

昔はそうした世代間の引き継ぎが自然とできていたはずですが、今はあいだを繋いでいくきっかけを作る人がいて、意識的に仕組んでいかないとできないのが現実です。たとえば観光者が旅の中でそれらを引き継ぐことで、自分自身の人生、地域、国へと持ち帰るものがある。そこから内発的に生まれてくるものがあって、なにかしらアクションとして自分の土地への働きかけになっていく。そうすれば人間のあり方として非常に豊かなものに繋がっていくんじゃないでしょうか。

漠然としていますが、それは一つの希望ではありますよね。そのイメージは湧いてきます。方法論的かもしれないけれど、こうしたことが大事だと思えることがまず必要ですものね。人間が人間たりうる知恵を引き継いでいくこと。観光を通じてそれを意識できる仕組みづくりをしていくのはおもしろいですね。物を消費するだけではない、何かを見て終わり食べて美味しくて終わり、ということではない。

人間に寄り添った観光いうことや、文化観光は。最終的には人ですね。文化を紡いでいく人そのもの、人あってのものですからね。

編集後記

ある文化を受け継ごうとするとき、そのありようはさまざまです。平安時代から続く技術を山科さんのように家職として受け継いでいくことも(現代では稀ながら)あれば、みずから関心を持って足を踏み入れて、生涯の長い時間をその文化と共に歩んでいくことで、文化の担い手としての自覚と覚悟を得ていくこともある。はたまた縁もゆかりもなかったはずの分野に偶然にも携わることになり、不意に手渡されたバトンを持つこともありえます。どのようなかたちであったとしても、そこにはかならず「人」が介在しています。

文化観光という旅の仕方をしていくと、たとえ旅行者に元々そのつもりがなくとも「旅先で出会ってしまった文化」に魅入られてしまい、気づいたら深入りしていくことがありえます。工芸・工房ツアーであろうと文化体験のレクチャーであろうと生活観光型の宿泊滞在であろうと形を問わず、文化観光にもまたかならず「人」が介在して、旅行者との関係性を築くものだからこそ、そうしたことが起こりえます。人が介在するということは、そこにはオペレーションを第一とするものではない、「人の心」が求められています。

山科さん、加藤さんお二人との話を通じて導かれた文化観光の可能性。「文化観光とはこのようなものである」といった定義づけをするのではなく幅を広げていくことによって、文化の担い手への経済的循環や「人の心」の伝達もしていきやすくなります。文化を愛する人たちを、さらなる深みへと誘(いざな)う文化観光のありかたが各地で試みられ、広まっていくことを願っています。


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